玉木宏の潜水艦長役は・・・

「真夏のオリオン」を観てきました。

僕は潜水艦を舞台とする戦争映画が大好きで、とくにドイツ映画の「Uボート」は何度も何度も観ています。

イケメン俳優の玉木宏が艦長役と聞き、さて、あの優男がどんな艦長を演じるのか、とても興味がありました。潜水艦艦長といえば、洋の東西を問わず、映画で演じるのは渋いタフガイ俳優と相場が決まっていますから、玉木宏のキャスティングは、ちょっとドキドキする期待感があります。

この映画、かなりの秀作だと思います。潜水艦という暗く、孤独な、死の臭いが漂う舞台装置を使い、これほど軽く、淡々と戦争を描いた作品には、あまりお目にかかったことがありません。

まず、悲惨なシーンが非常に少ないのが特徴です。人が死ぬ場面も最小限だし、潜水艦は沈まないし、主人公も死なない。絶望よりも希望に重きを置き、それをシナリオで実際に表現してみせた戦争映画です。

「Uボート」は、激戦をかいくぐって帰港した港で、あと一歩で生還というタイミングで空襲を受け、沈みゆく潜水艦を見届けながら艦長も息絶えるという悲しい結末。最近の日本映画では「ローレライ」がありますが、こちらも、艦載の大砲で(奇跡的にも!)原爆を抱いて飛び立つB29を打ち落とし、日本本土へのさらなる攻撃を食い止めたあと、米軍の猛追を受けて壮絶な最期を遂げます。ところが、「真夏のオリオン」には、観客が絶望に涙するようなシーンがまったくない。

たとえば、日本の潜水艦が大破して浮上し、米国の駆逐艦が艦砲で撃沈できる場面で、駆逐艦の艦長は「離艦する時間を与えよ」と指示して、主人公をはじめ乗組員は一命をとりとめる。そんなシーンを、ドラマチックに描くわけでもなく、まるで日常的な光景のように、自然体で見せてくれます。

それに接すると、天皇陛下万歳を叫んだ玉砕もたくさんあったにせよ、「ムダな人殺しはしたくない」「助かるなら生き続けたい」という、人間本来の正直な気持ちが通う場面が、あの悲惨な戦争にもあったのだろうな、と、当たり前のことに、今更ながらはっとするのです。

玉木宏も、彼ならではの飄々とした、それでいて嫌みのないスマートさと、心の強さを併せ持つ艦長役を演じてくれました。ちょっとでもバランスが崩れると、置かれた状況とのミスマッチが際立つ立場だけに、高く評価すべき演技だったと思います。

日本の戦争映画は、極端な精神主義か、それと裏腹の悲壮感がどうしてもクローズアップされ、人間の描き方のバランスを欠いているように思えてなりません。こうした映画がもっと出てくることを期待します。

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山崎豊子という小説家

山崎豊子「運命の人」全4巻、いま読み終わりました。

この人の大作は昔から大好きで、今回もわくわくして読み始めたのですが、どうもテーマの掘り下げが中途半端なような・・・・。

3巻まで、沖縄返還交渉をめぐる外務省機密漏洩事件(いわゆる西山事件)を詳細に追い、最終の第4巻で有罪判決を受けた新聞記者の沖縄での暮らしに移るわけですが、前者と後者のバランスがいまいちで、第4巻で掘り下げつつあった「沖縄の戦禍」というテーマをもっと続けてほしかった、と思いました。

「不毛地帯」や「大地の子」のような、ぐいぐいと読者を引っ張る力強さ、一貫してテーマを掘り下げる迫力が、さすがに色あせてきたのかな・・・と、当初はかなり辛辣な印象を抱いたのですが、あとがきを読んで、筆者の苦労を知りました。

もともと毎日新聞記者だった筆者は、「かねてより第四の権力である新聞マスコミを書いてみたいとは考えていたが、小説として成り立たせることは、限りなく困難であることから、見送ってきた」そうです。

ふと外務省機密漏洩事件に思いが至り、その「困難」への挑戦(調査開始)を始めたのが2001年というから、かれこれ9年かかって世に出たことになります。

戦時中、女子挺身隊員だったという筆者の沖縄への強い思いが重なり、この作品の流れが見えてきたものの、あとがきではこう書いています。

「今回、最も苦慮したのは、小説の構成であった。外務省機密漏洩事件と沖縄をどう小説として一貫性を持たせるか。従来の私の小説作法を以ってしては書けなかった。どのために考え苦しみ、ストーリー展開表に見入るばかりの日々が延々と続いた。やっと見切りをつけ、『文藝春秋』連載に漕ぎ着くのに、取材開始から四年近くの歳月を要した。沖縄篇に入る前にやや体調を崩し、一年余の休養を戴き、その後もゲラ訂正にあたって再取材した」

圧巻は、巻末に掲げられた取材協力者や参考文献のリスト。その、あまりの膨大さに、あらためて、この人の小説技法の「すごさ」を感じます。そして、筆者が「1924年11月生まれ」であるという事実。満年齢でいま84歳です。

最後まで読み、あとがきまで読んで、よかった、と感じました。

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作戦タイムの「中継」はやめてくれ!

テレビのスポーツ中継で、作戦タイムでのベンチのやり取りを生中継するのは、いつごろから始まったのだろうか、と、ふと考えました。たしか、全日本のバレーボールの中継(フジテレビ?)が最初だったように記憶しています。

昨日、高校バスケットの試合をテレビで見ていて、例によって、タイムアウトでのベンチでのヘッドコーチと選手、選手同士の「会話」が、まるごと放映されているのを見て、気恥ずかしいというか、見てはならないものをのぞき見たような、気まずさを感じてしまいました。

番組の演出としては、これほど面白い要素はないわけで、そもそもバレーやバスケットでは、タイムアウトが頻繁に取られるだけでなく、たいていの場合、一方のチームが攻め込んで(もう一方が追い詰められて)試合が盛り上がるタイミングに限って「タイム」が取られるという、番組側からすると、あまり好ましくない特性があります。

そんな空白の時間に、ベンチでのやり取り、とりわけ劣勢のチームのヘッドコーチが選手に檄を飛ばす様子、あるいは選手同士が励まし合い、形勢逆転を目指す姿をありのままに映すことは、スポーツのドラマ性を最高に高めてくれます。「トイレタイム」を、高視聴率の時間帯に変えることができるのでしょう。

ただ、僕も中学時代にバスケットをやっていましたが、タイムアウトのベンチでは、あまり外部の人には聞かせられない(お上品ではない)やり取りが、当たり前のように交わされたものです。弱小チームでしたから、ヘッドコーチ(顧問の先生)はいつも頭に血が上り、ベンチでは怒鳴り散らしていました。それを思うと、テレビで中継されるヘッドコーチや選手たちの言葉は、どこか上品過ぎて、当たり障りがなく、これはやはりテレビ中継を意識して「ヤバイ」発言は慎んでいるのかな・・・、と想像しています。

だとすると、ヘッドコーチや選手たちにとって、これはストレスになっていないのだろうかと、余計な心配をしてしまいます。言いたいことが本当に言えているだろうか、と。あるいは、携帯のワンセグで生中継のテレビ放送を見ながら、敵チームの作戦をまるごと盗み聞き(テレビ放送だから盗み聞きにはならないか)することも、冗談抜きで可能なわけです。

もしかしたら、そうした中継手法に対し、「ふざけるな」と反抗する監督やコーチがいるかもしれません。しかし、それを我慢すればテレビ局が試合を中継してくれる、そのスポーツの知名度向上に大きく寄与する、と説得されたら、持論を押し通すことは難しいでしょう。

でも、僕はやはり、作戦タイムでのやり取りをテレビでオンエアすることには反対です。番組としては面白くなるとしても、勝負を争うスポーツのあり方として、おかしいと考えるからです。試合に勝つことを至上命題とするチームの指導者が、相手に秘密であればこそ効力を発揮する「戦略」を、リアルタイムで公にするなど、どう考えてもおかしいし、チームの指導者は皆、望んで受け入れているわけではないと思います。

結局のところ、テレビ中継・放映「してやる」から、そのかわりに視聴率を上げて番組を盛り上げることに協力せよ、と。そうした、テレビ局からの圧力に、試合の主催者(○○協会など)が押し切られた結果ではないかと思います。そして、それに慣れるうちに、疑問にさえ思わなくなっていくのかもしれません。

舞台裏を公開することは、お笑い番組でも、バラエティ番組でも、よく使われる手法です。こうした手法は「楽屋落ち」と呼ばれ、本来、あまり褒められたものではなかったはず。しかし、いろいろなテレビ番組で使われるうちに、視聴者にもほとんど違和感がなくなってきたようです。それをスポーツに当てはめたのが、作戦タイムのまるごと中継です。

作戦タイムのやり取りが公開されると、どのような影響が出てくるか。

第一には、「先の読めないドラマ」が激減します。チームの作戦、次にどうするか、誰が何をするのか、全部聞こえてしまうので、視聴者は「先」を読めてしまうわけです。

第二に、解説者の力量が問われなくなります。同じ理由で、解説者はチームの戦法、戦略の変化を洞察し、予言し、解説する必要がなくなるからです。だから、「すごい!」「うまい!」「いけ!」といった、一般視聴者と同じことをマイクに向かって叫び、雰囲気を盛り上げてくれれば、用が足ります。

プロ野球中継で、ピンチを招いたピッチャーに駆け寄ったキャッチャーが、ミットで口元を隠しながら、何ごとかささやきかけ、それにピッチャーがうなずく。プレイボールがかかり、次の球を投げる。こんなとき、キャッチャーはいったい何をささやき、ピッチャーに自信を取り戻させたのだろう、と想像を巡らすことは、とても楽しい時間です。それを解説者が、経験をフル活用して推測して、次の対処を予測し、それが当たったときも、外れたときも、スポーツの楽しさ(先が読めない醍醐味)を感じます。

ずいぶん前からフジテレビが一生懸命続けている、全日本バレーの中継は、あの作戦タイム中継が始まってから、僕はすっかり興味がなくなり、ほとんど見なくなりました。どうも、スポーツを見ている気がしなくなり、何かのショーのように感じてしまうようになったからです。バスケットも、そうなってしまうとすると、とても寂しい気がします。

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東国原知事のPR能力

「総裁候補にするなら総選挙に自民党から出てもいい」という東国原知事の発言が、ますます波紋を広げていますね。

こういうアイデア、発想をご自身の力でされているとしたら、この方は天才的なPRマンではないかと思います。

考えてみれば、「総裁候補」など、自民党から総選挙に立候補する際の「立場」としてはありえません。所定の要件(賛同人など)を満たせば、自民党の国会議員なら、だれでも総裁選に立候補できるわけで、そもそも「回答できない」要求・条件出しをしているわけです。

しかし、そんな、たいして意味のない・・・はずのひとことが、大きな波紋を呼ぶであろう状況を、この方は冷静に分析し、計算しているのでしょう。

九州のいち知事が、大自民党に正面から大見得を切り、それを喰らった自民党はてんやわんやの大騒ぎ。一般国民からみれば、これは、かなり痛快な図です。

東国原発言に呼応して、これも人気者の橋下知事や横浜の中田市長が声をあげ(東国原さんの趣旨に必ずしも賛同する声ばかりではないところがミソ)、結局のところ、自治体首長がタッグを組んで支持政党を鮮明にしていこう、という橋下知事の提案がクローズアップされてきました。国の権限を地方自治体に移す、という彼ら共通の目的に沿うかたちで、報道と世論が導かれつつあり、どうも自民党は、そのダシに使われたようです。

東国原発言がなぜこれほどの波紋を呼んだか、もっとはっきり言えば、なぜ、テレビを中心とするメディアに大きく取り上げられたのか。まさにPRの核心の部分ですが、国民の多くが感じているモヤモヤを、胸のすくようなやり方で、しかもサプライズを伴って、メッセージとして発信したからだと考えます。

まず第一に、これまで「オレを総裁(首相)にする気があるなら選挙に出てやる」と、公の席で自民党に堂々と「要求」した人物は、僕の知る限りひとりもいません。これ自体が、大きなサプライズです。

さらに、小泉さんが首相を辞めてから、安倍さん、福田さん、麻生さんと、どうも頼りない政権が続き、とりわけ(福田さんが代表ですが)「ホントに総理大臣になりたかったの?」と聞きたくなるような、信念とリーダーシップを感じ取れないトップの姿を何年も見せられてきた国民のモヤモヤを、一気に振り払うような言葉だったことがあります。

「オレを総裁にする気があるなら・・・」とは、「どうせ自民党にはオレより覚悟のあるヤツはいないだろう」というメッセージの裏返しであり、多くの国民は、そのメッセージに「よくぞ言ってくれた」と、スッキリしたのだろうと思います。

サプライズと、聞き手が(潜在的に)渇望している要素を取り込み、さらに、自民党の大幹部(古賀選対委員長)が協力要請に出向いてきたところで「返り討ち」にするという憎らしい演出。これらが相まって、大きなPR効果が発揮されたケースでしょう。とても参考になる、PRの成功事例です。

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このブログの趣旨を変えます

またやってしまいました。。。。21日にわたる更新ストップ。

やさぐれPRマンの広報・コミュニケーション日記と銘打ち、できるだけ広報・PRに関するネタで続けようとやってきましたが、どうしても「壁」を乗り越えることができません。

それは、現役のPRパーソンであり、クライアントを抱える立場で、タイトルに沿う内容の記事を継続的に書いていくことの難しさです。(もともとわかっていたことですが・・・)

早い話が、本当に書きたくて、かつ意味のあるネタは、たいていがクライアントの秘密に属するものである、ということ。だから、書きたいことを脇に置いて、「書ける」ことを探しているうちに、書くこと自体へのモチベーションが低くなる、という悪循環に陥ります。

そこで、この際、割り切ることにしました。

ブログのタイトルは変えませんが、これからは、それにこだわらず、思ったこと気づいたこと、なんでも書いていこうと決めました。もちろん、本来の趣旨である広報・PRに関する話題は続けますが、もう、それに固執はしない、ということです。

今日からは楽しく、軽く、書いていこうと思います。

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京都教育大学の学長

京都教育大学の学生による集団暴行事件、学長の会見映像がテレビで流されましたが、ひさしぶりに「記者会見での悪い事例」のサンプルとなりました。

警察への通報の遅れといった問題より、なぜか歯を見せながら受け答えしていたり、だらしなく肘をついていたり、という「外見」での失敗が目立ちます。事件の中身が中身だけに、こうした「誠意に欠ける」行いは、決定的なダメージとなります。大学として警察に通報しなかった理由としてたびたび口にした「教育的配慮」も、ブラックユーモアとしての評価はさておき、大きなマイナスインパクトをもたらしましたね。

なぜこんな失態をしでかすのか、公立大学の体質に由来する側面が強いのはもちろんです。が、広報の視点で考えると、「活字的思考」ばかりを重視して「映像(テレビ)的思考」ができない・・・という、年配の企業・団体トップ層にかなり共通する弱点が、さらけ出されているのかな、とも思います。

この話題、またあらためて。

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「友愛」とは

民主党の鳩山代表がスローガンに掲げた「友愛」。初めて耳にしたときは「なんじゃこれは?」と戸惑いました。

ところが、知る人によるとこれには深い意味があり、いかにも鳩山さんらしいとのこと(http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/fc4f5dcab5f9e13f2d61991c9aaaefd0)。

しかし、やっぱり政治コミュニケーションの視点でみると、残念ながら「失格」のセンスと言うしかないでしょう。不勉強で無知な大部分の国民が容易に理解し、共感できる言葉を掲げなければ。。。

「友愛」は、かの鳩山一郎氏が傾倒した思想だということです。おそらく、党内の団結を重視するあまり、その言葉に飛びついたのではないかと推測します。が、あまりに曖昧かつ観念的な言葉であるため、その「意味」が、はやくも拡散しています。

適当にニュースをみていると、「友愛」を社是としている某大企業が「『友愛』は理念であり、経営とは別。民主党は政策でアピールせよ」(社長)とかみついたり、北朝鮮への民主党の姿勢について「友愛外交」というレッテルで論評されたり、これぞ「使い放題」といった様相です。今後、鳩山民主党が曖昧な政治スタンスを示すたびに、「友愛」がマイナスイメージで繰り返しマスコミで使われるのは確実でしょう。

民主党は野党であり、政権奪取をめざす立場にあります。そうであれば、すべてのメッセージは敵(政府・自民党)を倒すために集約させないといけません。ちょっと図式が違いますが、「抵抗勢力」「自民党をぶっ壊す」などの小泉語録は、その言葉の意味が明確にイメージでき、さらに打ち倒すべき「敵」の存在が容易に浮かび上がるところにうまさがあり、それがゆえにブレークしました。

では、民主党はどんな言葉を掲げるべきだったのか? これは難しい問題ですが、国民の多くが感じている「敵」とは何なのか。。。。 まずは「貧困(生活不安)」でしょうか。そして、永遠のテーマである「官僚支配」。やっぱりこの路線なのかな、と思います。すると、小沢時代から掲げている「国民の生活がいちばん」「政治とは生活である」というメッセージの延長でよかったのではないか、という気がしています。(鳩山さんは小沢傀儡批判を考慮したのかもしれませんが)

本当は、与党より自由に発言できる民主党には、官僚支配からの脱却の意味でも、明治以来の中央集権国家を終わらせる、くらいのスローガンを期待したいところですが。。。 やっぱり「友愛」にはトホホです。

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日本を創った12人

堺屋太一さんの「日本を創った12人」を、出張途中のキオスクで買い、楽しく読んでいます。

日本人や日本社会の特性を、特定の人物の生き様と、それが伝えられる中で発生した「影響」から読み解く、という手法は、かなり斬新なものに感じます。

昔なら、東郷元帥だの乃木将軍だのと、いろいろあったのでしょうが、戦後の歴史教育では、そうした「人物重視」は「道徳」とともに消えたせいもあるのでしょう。子どものころに習った歴史の授業を思い返しても、人物にフォーカスした歴史観は、ほとんど縁がありません。

しかし、この本を読んでいると、宗教に無頓着=聖徳太子、生産性や効率性とかけ離れた勤勉性=石田梅岩、などなど、「ああ、なるほど」と思える事例が次々に登場します。

この本に登場する12人のうち、戦後に活躍したのは、マッカーサーと池田勇人、そして松下幸之助の3人。ふと、それ以降、僕が直接、見聞きした範囲で、仮に50年後か100年後か200年後、同じように取り上げられる人物とは、果たして誰だろうか、と考えました。

人物の評価は歴史が下す、とはよく言ったもので、身近に生きている(いた)人の歴史的な存在意義を、リアルタイムで考えるのはとても難しいものですね。

ちなみに、12人の顔ぶれは、この5人のほかに光源氏、源頼朝、織田信長、石田三成、徳川家康、大久保利通、渋沢栄一。実在しない人物も含まれているところが、なんとも示唆に富んでいます。

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小沢代表にメディアトレーニングはできるか?

「ついに」というべきか、「やっと」というべきか、小沢代表が辞任を表明しました。

この間、小沢さんが居座れば居座るほど民主党支持率が下落するという、民主党にとっては最悪、自民党にとっては有り難い状況が続いてきたわけで、遅すぎる決断でした。

さて、PRパーソンの立場から見ると、昨日の小沢さんの会見、いろいろいいたいこともありますが、むしろ「PRコンサルタントの限界」を感じjます。

たとえば、昨日の会見前に、小沢さんにメディアトレーニングを施し、民主党が受けるダメージを最小化したい、という仕事のオファーはありえます。しかし、そこで何ができるかというと、ほとんど無力だろうと思います。

政治家、とりわけ権力の頂点にある人物に対するメディアトレーニングが「成功」に終わることはきわめて希なことです。これは企業のトップとは、まったく異なる傾向です。

なぜなのか、考えてみると、やはり政治家は(偉くなればなるほど)政党などの組織ではなく個人(ひとりぼっち)として生きている、ことに尽きるような気がします。

メディアトレーニングは、もっぱら企業のトップクラスを対象にプログラムが構築され、企業(組織)の全体利益を拡大・維持するためのトップの「振るまい」に主眼が置かれています。だから、その前提が崩れ、組織と(対象者)個人の利害が交錯すると、とたんに混乱して、目的も手段も、当然ながら提供するアドバイスも、明確さ(一貫性)を欠いてしまう傾向があります。

もうひとつ指摘すれば、対象者が(所属する)組織の継続的な発展を望む前提がない場合も、プログラムが成り立ちません。要するに、崖っぷちというか、生きるか死ぬかみたいな悲壮感で行われる会見になると、トレーニングでは対応が難しくなるのです。

今回の小沢会見も、その一例でしょう。常識的に見れば、大政治家の政治生命がほぼ終わる瞬間であり、とはいえ、民主党の中で復活を目指すのか、はたまた政界再編を仕掛けて違う土俵で生き返ろうとするのか、そんなところまで読み取るのは不可能です。「もう、本人に任せるしかない」状況といえます。

少し前、日本漢字検定協会(漢検)の理事長が会見して、かなり叩かれていました。あれもまた、「崖っぷち」タイプの会見でした。組織としての利害と、本人の利害が完全一致しない中で、その本人が会見するわけですから、アドバイスを提供する側にとってはきわめてコントロールが難しい(というよりほとんど不可能)状況になります。

某PR会社がついていて、相当苦労したと側聞しますが、だれがやってもうまくいかない、そんなケースだと思います。

なんだか後ろ向きのエントリになりましたね。。。。

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国会議員の世襲制限について

国会議員選挙での世襲立候補制限の論議が、民主党や自民党で始まっています。僕は制限することに賛成です。その理由は、今のままでは、永田町に優秀な人間が集まらない(集まりにくい)ことに尽きます。

考えてみれば、明治維新から150年近く、終戦から66年経ちます。道州制、高齢化社会への対応、新しい科学技術(生物工学など)の重要性をはじめ、いまの国のかたちやあり方を根本的に変えなければいけない!と、さまざまな人が叫んでも、政治は停滞するばかりで、改善を望む人もやがて諦めて(あきれて)黙ってしまう・・・。そんな悪循環が続いているような気がしてなりません。

いま自民党の国会議員のなんと4割が、いわゆる世襲だそうです。もちろん優秀だったり、尊敬に値する人はたくさんいます。しかし、国を動かすというダイナミズムを考えると、世襲だらけの国会議員のパワー不足は、やはり否めないのではないでしょうか。

日本にはいろんな課題がありますが、僕がもっとも必要性を感じるのは道州制の導入です。まあ、道州制と決めるわけではありませんが、とにかく、江戸から明治に変わるとき(人為的に/無理矢理)つくられた中央集権の巨大政府の権限とお金、そして人材(こちらは官僚として優秀な人が集まっている)を、どんどん地方に「還元」すべきだと思います。

これまで続いてきた、地方自治体が自治省や大蔵省(財務省)、建設省(国土交通省)などから企画部長や副知事の出向を待つのではなく(これはこれで優秀な人材を獲得するという意義はあった)、これからは、霞ヶ関の無粋な官庁街でストレスまみれで働いている優秀な中央官僚たちが故郷へ戻り、生まれ育った町や地域のために人生を賭けるようになれば、ずっと「おもしろい」日本ができるような気がします。

そのためにも、政治の世襲制限は有効ではないかと。

でも、最近まで僕は、世襲制限論を、ちょっと斜に構えてながめていました。「俺たちまでは(世襲が)よくて、次はダメというのはおかしい。まず現職(世襲)議員が選挙区を変えるか辞職すべき」という「そもそも論」に一定の共感を抱いていたためです。

しかし、原則論として正当であっても、物事を進める立場からは「ためにする議論」になるという、典型的なヤツでしたね。どうも意固地になるというか、原則論に固執するきらいがあり、自分自身の「よくない面」だと、あらためて自覚したしだいです。

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「伝えりゃいい」のか

昨日は関内・伊勢佐木町周辺で行われたパレードを観に行きました。GWの恒例行事で、市民の手作り感があふれ、ほのぼのとしたイベントです。

ただ、興ざめだったことがひとつ。

レオタード姿のバトンとか、肌の露出が多いサンバなどが通る直前になると、スタッフの男性が「過度な望遠レンズでの撮影はご遠慮くださーい!」と、沿道のギャラリーに「注意」を促して回るのです。

まあ、おそらくは、投稿写真雑誌とかサイトなどに、その手の映像・画像が「流出」するのが好ましくない、との理由からでしょうが、関係ない大多数のギャラリーにとっては、なんとも気まずいというか、嫌な気分にさせられるものです。「過度な望遠レンズ」というのも、不必要に生々しい表現です。まるで、「まもなく非常に問題なパレードが通りますから気をつけてください」と前振りされているようで。。。

話は変わりますが、仕事の合間に山下公園あたりを散策していると、神奈川県警水上(すいじょう)署のモーターボートが岸壁近くを周回しながら、陸の人々に向けた大音量のスピーカーで「皆さん、振り込め詐欺には気をつけましょう。くれぐれも不振な電話には・・・」と、お説教を垂れてくださいます。

振り込め詐欺の被害防止も大事でしょうが、海辺の空気を吸い込んでリフレッシュしたい人間にとっては、まるで無理矢理、俗世のしがらみに引き戻されるようで、お行儀わるいようですが、僕などは「うるせえ、消えろ!」と、ボートに怒鳴りたくなってしまいます。

港の雰囲気を楽しみに遠くから訪れた人もがっかりでしょうし、プロポーズを決意して恋人を連れ出した若者もムードぶちこわしのうえ、相手が「結婚詐欺」を連想してはまずいと、いらぬ気遣いをするかもしれません(笑)。

一部の人による「悪い行い」を防ぐという大義名分のためには、その他大多数の無関係な人々に対して、「多少の迷惑」をかけても許される。この考え方は、日本ではとても強く存在していると感じます。迷惑をかける側(もっぱら行政)にも、かけられる側にも。

それが「治安」を守っている、とする意見もあるでしょう。しかし、失われているものも大きいのではないか、と思います。

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会社のロゴをつくりました

知り合いのデPrj_basic_eザイナーさんにお願いして、会社のロゴマークをつくってもらいました。

Prj_option_1設立から約一年、ついつい後回しにしてきましたが、ようやく一区切りつきました。

クライアントに進むべき道筋を示し、成功へと導くための黒子役がコンサルタントの仕事だと思っているので、そんなイメージをロゴで示せないか? また、横浜(海のすぐそば)に本拠を構えることからも、「羅針盤」「コンパス」を模したデザインにできないか?・・・と相談したところ、さすがプロフェッショナルですね、スマートにまとめてくれました。

さっそく名刺を新調し、封筒も発注しました。少しは会社らしく見栄えを整え、「2年目」をスタートできそうです。

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和歌山カレー事件と裁判員制度

和歌山カレー事件の最高裁判決が出て、直接証拠がなく、状況証拠の積み重ねによる判決(死刑支持)だったことから、これが裁判員制度になったら、裁判員はどう裁くことになるのか? という議論が噴出しています。

仮に僕がこの事件を裁判員として裁く立場に置かれたら、おそらく、死刑判決には賛同できないだろうな、と思います。

林被告が直接、カレーにヒ素を混入したという証拠があるならともかく、状況証拠(限りなく怪しい/被告以外に犯人は考えられない)だけでは、もしも真犯人が別にいたことが判明したとき、取り返しがつかない事態になると思うからです。

裁判の過程を詳しく調べていないので、あくまで素人考えですが、林被告のことを恨んでいる人物がいて、しかも周辺住人のまったく知らない人で、警察の捜査線上にも上がっていなかったとして、その人物が、被告宅にあったヒ素を事前に持ち出し、あの日、カレー鍋に入れ、(奇跡的に)誰にも気づかれずに消え去った、という可能性もあるのではないか、などと考えてしまいます。

この考えはプロからみれば「非現実的」かもしれませんが、裁判員は捜査のプロでも、ジャーナリストでも、現場周辺住民でもないわけで、あかの他人・ズブの素人がある日、突然、見も知らぬ人を裁く立場に置かれることになります。新聞で被告・検察の主張と最高裁の判断を整理した「争点表」を見る限り、「(自分が裁判員だったら)これで死刑にできるか?」というのが率直な感想です。

だから、気が重いのですが、そのうち順番が回ってくるかもしれません。仕事に深刻な影響がない範囲で、できるだけ参加したいと思っています。刑事裁判に、一般市民の感覚と判断を導入するのは、とてもよいことだと考えますから。

しかし、もし自分がその立場に立ったら、「疑わしきは罰せず」の原則に、できるだけ忠実にありたいと思っています。とりわけ、検察側の立証が状況証拠に依存する案件では。

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1冊のサイン帳

はや旧聞になりますが、WBCで不調にあえいでいたイチロー選手が復活したとき、「(一時は)心が折れそうになった」という名言を残しました。

真の天才、孤高の人ならではの、絶妙な表現ですね。

僕のような凡人でも、置かれる立場によっては、同じような心境になるのかもしれません。

この1年、大半の時間、「ひとり」で仕事をしています。まあ、自ら望んだスタイルですし、元来、仕事はひとりでやるほうが性に合っているので、それほど苦になることはありません。しかし、ひどく落ち込んだときや、どうしてもモチベーションが湧かないとき、そこから立ち直るのは、けっこう難儀なものです。

それまでの仕事人生で、いかに他者の助けを借りて、折れかかった心を立て直してきたのか、しみじみとわかります。

オフィスの引き出しには、1冊の「サイン帳」(・・・と呼ぶのか定かではありません)がしまってあります。前職を辞めるとき、同僚たちがメッセージを書き込み、プレゼントしてくれたものです。

この1年、僕は幾度も、この1冊に助けてもらっています。

ひとつひとつのメッセージを読み返すと、「みっともない、中途半端なことはできないぞ」と、自分に活を入れることができるからです。

古い人間なのかもしれません。仁義というのか、義理というべきか。いずれにしても、6年余を過ごした「場所」と、そこで得た「仲間」には愛着と感謝があり、いま僕がどう振る舞っても、実のところ、何がどうなるわけではないしにしろ、やっぱり「切れ」ないものですね。

人の縁に感謝しつつ、あと10日で、独立から1周年を迎えます。

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週刊新潮にエールを贈ります

週刊新潮が、朝日新聞阪神支局襲撃事件の「実行犯の手記」掲載について、早川清編集長による謝罪(経緯説明)記事を掲載しました。

手記を連載(4回)のかたちで発表してから、事件の「被害者」でもある朝日新聞をはじめ、マスコミから袋だたきにあってきた週刊新潮が、はじめて公式に謝罪し、取材経緯を説明したものです。

ジャーナリズムに興味を持つ方には、ぜひとも読んでほしいと思います。

週刊新潮の手記掲載は、大マスコミがこぞって「裏付けが甘い」「報道機関として不適切」などと批判するような、それほど「ひどい」報道だったのか?、僕はとても疑問に感じています。

警察などの捜査当局に頼らず、関係者の証言を軸に独自取材でスクープをものにすることが、いかに難しいことなのか、今回の記事を読むと、あらためてよくわかります。

早川編集長は、取材の過程でどの部分の裏付けが「甘かった」のか、すべて明らかにしています。それをもって、「やっぱり週刊誌は取材が甘い」「スクープ偏重主義だ」などと、したり顔で解説するのはたやすいことですが、いまの時代、当局におんぶにだっこではなく、独自取材で事件の真相を解明しようと(本気で)考えるメディアが、はたしてどれだけあるでしょうか?

週刊新潮には、リスクを考えて、あえて手記を掲載しないことも、「?」をつけて逃げながら掲載する(もし『当たり』だったときは一応、スクープになる)選択肢もあったわけです。保身を第一に考える編集長なら、きっとそうするでしょう。お笑い芸人のスキャンダルでも載せておけば、そこそこ雑誌は売れるだろうし、手記を載せなかったことを指弾する(新潮社の)上層部なんて、ほとんどいないでしょう。

それでも、あえて勝負に出て、結果として、負けた(間違えた)。なぜ間違えたか、その原因については、今回の記事で読者に開示して、謝罪している。

僕は、報道機関が「間違える」ことは、仕方のないことだと思っています。「虚報」は論外ですが「誤報」はありえる、というより、100%防ぐことは不可能だと。ただ、その後で、きちんと経緯を説明し、謝罪するべきは謝罪し、責任をとるべきはとれば、それでいいと思います。

それよりも、リスクを恐れるあまり、「書かなければ傷も負わない」と考え、だれも独自取材によるスクープを狙わなくなるほうが、よほど恐ろしいと考えます。当局(役所)発の情報しか、メディアに登場しなくなるからです。

たとえば新聞社でも、事件取材のほとんどは、警察や検察など捜査機関に対する取材をもって展開されています。「特捜部の調べでわかった」「○○署の調べでわかった」「捜査一課は逮捕状をとった」・・・といったスタイルで始まる記事ですね。これは、捜査機関が調べた情報を、(逮捕や起訴、公判などで)公表されるより早く世に知らせる、という目的で行われる報道です。

それと一線を画するのが、捜査機関に頼らない独自取材(調査報道)になりますが、捜査権限をもつ当局に頼れない分、真相解明の難しさ、取材にかかる時間や人手などのコストの高さだけでなく、関係者から訴えられるなどのリスクをまるごと書いた側が引き受けざるをえない、という「重さ」を背負い込むことになります。

報道機関も民間企業ですから、コストパフォーマンスとリスクヘッジだけを重視すれば、こんな面倒で危ない手段は避けたいと、とりわけ上層部は考えるようになります。

週刊新潮が手記掲載を決断したことが、報道機関として、どの程度「甘かった」かは、今回の記事を読んで、それぞれの人が判断すればいいことですが、僕は、少なくとも「手記」のかたちで掲載したことが非常識、とまではいえないと考えています。

そのうえで、主に新聞紙上で展開されている「新潮バッシング」を見ると、なんだか悲しくなってきます。

ただし、朝日新聞だけは別です。仲間を何者かに殺され、警察に頼らない独自の調査(ほとんど捜査)をずっと続けてきて、ついに真犯人を突き止めるに至らなかった彼らが、(彼らの努力からみればはるかに)「安易な取材=誤報」に対して「ふざけるな!」と憤るのは、ある意味で当然ともいえます。

しかし、それ以外の報道機関はどうでしょうか。調査報道であえてリスクをとり、果敢に勝負に出たジャーナリズムに対して、あまりに表面的な、底の浅い批判しか、展開できていないのではないでしょうか。

早川編集長は記事の最後で、「次々号から編集長が交代する」と書いています。引責辞任(更迭)ということです。あえてリスクを引き受けなければ、ありていの記事でお茶を濁していれば、そんな憂き目にもあわなかったのに、あえて勝負してくれたことに、一読者として感謝と敬意を表したいと思います。

また、いま、おそらく針のむしろの日々を送っているであろう取材班の皆さんにも、その努力と熱意に、拍手を贈ります。

「新しい編集長のもとで心機一転し、今回のことにひるむことなく、取材を徹底させて今後ますます積極的に報道することを期待している」との早川編集長の言葉に、僕も同感です。

※ ただ、今回の記事のタイトル「『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に騙された」には、不満があります。“被害者”のニュアンスを前面に出すのは(逆説的な意図があるのかもしれませんが)、せっかくの真摯な記事の価値を貶めます。真正面から、潔いタイトルをつけてほしかったと思います。

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君は「ポツ」を見たか

2009030218420000 JR横浜駅の京浜東北線下りホーム、川崎寄りの端っこにある、不思議な表示です。

「ポツ」とは??

おそらく、非常警報の類の装置だとは思うのですが。

それにしても、「ポツ」とは?

駅って、いろいろおもしろいものがありますね。

モノも、音も、時間も、空気も、そして人間も。。。

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なぜ英語なのか?

先日、「ワルキューレ」を観てきました。トム・クルーズ主演、ドイツ将校たちがヒトラー暗殺を企てた史実からつくった映画で、かなりまじめというか、地味な作品でした。まあまあ(可も不可も・・・)、という感じです。

それより気になるのは、いくらアメリカでつくっている映画だからといって、登場人物全員がドイツ人の設定なのに、その全員が英語で喋るのは何とかならないのか??ということです。

自軍の劣勢を英語で愚痴るヒトラーなんて、リアリティあります?

あの独特の演説だって、ドイツ語ならではの語感があるからサマになるのであって、もし英語でやっていたら、チャップリンが「独裁者」で見せた名演技も生まれなかったというもの。トム・クルーズ扮するドイツ青年将校が、必要以上にスマートに、味気なく見えてしまうのも、おそらくは英語ゆえです。

その点、僕のおすすめは「Uボート」です。対戦末期、敗色濃厚ななかで奮闘するドイツ海軍のUボートクルーの悲劇を、全編ドイツ語オンリーで描きます。もっぱらレンタルですが、これまで何度繰り返して観ていることか。

観たことない方はぜひ!

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橋下知事の「部長総取っ替え」

さて企画の神様は、降りてきてくれたのだかはっきりしませんが、作業はなんとか進み出しました。

昨日は天気がよかったので、お昼を食べてから大桟橋へ散歩にでかけると、大きな客船が横付けされていました。

2009040711570000 船尾に国旗らしい旗が掲げてあるのですが、みたこともないデザイン。中南米かアフリカか? 

世界旅行の途中で立ち寄ったのでしょう。日本の桜をみるためかもしれませんね。

僕は船が大好きで、船酔いもまったくしません。年に何度か、どんな船でもいいので、とにかく船の乗らないと、どうもストレスがたまるようです。

お日様の光を浴びて、船をみて、気分転換できたのがよかったのか、これが企画の神様だったのかもしれません。

ところで、東京ではあまり大きなニュースになっていないようですが、大阪の橋下知事が部長職員を総取っ替えした件http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/K2009033101321.htmlで、神奈川県庁に勤める友人が「これでいいのか?」と疑問を呈していました。「知事の周囲がイエスマンばかりになってしまう」ことを懸念しているのですが、僕はそうは思いません。

大阪府は、企業でいえば借金漬けで倒産寸前の状態だったものを立て直している途上であり、それを託された知事(社長)が、取締役にあたる部長を全員交代させることは、①それまでの「執行部」の責任を明確化する ②人心を一新し、組織を活性化させ、新たな挑戦や試みを募る ③有権者に選ばれた政治家が方向を決め、官僚がそれを補佐・執行するという地方自治(民主主義)の原則を確認させる ・・・という意味で、正しいことだと考えます。

交代させられた部長は、くびになるわけでもなく、ちゃんとそれなりのポストに就いているのだから、同情するのもおかしな話です。、そもそも官僚とは、どんな立場でれ、住民に奉仕するためにその地位を与えられているのだから。

周囲がイエスマンだらけになる、という懸念も、どうかと思います。選挙で選ばれた首長が公約を実行しようとするとき、役所の内部で、有権者に見えないところでの抵抗がなされることのほうが、よほど不健全ではないかと。橋下さんは、あと2年か3年でまた選挙を戦い、彼の政策を大阪府民が了としなければ、そのときに落選するだけです。

こうした新しいことは、日本の場合、国政より地方政治が先行するのが宿命のようですね。霞ヶ関の官僚機構がパワフルかつ「重い」という事情はあるでしょうが、以前の記事http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/K2009033101321.htmlでも指摘したように、直接選挙で選ばれたリーダーと、そうでないリーダーの間にある「覚悟の差」を感じざるをえません。

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企画の神様

企画作りが難航して、かなり煮詰まってきました。土日をつぶし、かれこれ4日も作業しているのに、昨日、当初の設計が大間違いだったことに気づき、最初からやり直し。さすがにへこみました。。。

先輩のPRパーソンいわく、行き詰まった状態が打開されるときは、「企画の神様が降りてくる」のだとか。その気持ち、わかるような気がします。毎回、徹夜もせずに、さらさらと及第点以上の企画をつくりあげることのできる人を、心から尊敬します。 

僕はといえば、常に七転八倒、通常の勤務時間内で企画をつくったことなど一度もなく、トータルではかなり寿命を縮めているのではないかとさえ、思います。

意外と、時間がないときのほうがうまくできるもので、これは思考が単純明快になるからのようです。前職のときは、自宅から遠かったせいもあり(タクシー代が2万円を超えました)、しょっちゅう会社やホテルに「宿泊」して、まさに「やさぐれ」生活だったのですが、徹夜するときは、まず夕方から飲みにいって眠ってしまい、深夜に起き出して、朝まで完成させるという手法を多用していました。

これは、そもそも「完徹」が苦手で、眠気で作業効率が落ちる、それならば、まず最低限の睡眠を確保してから、限られた時間で仕事をするほうが、効率がよい、という考え方です。それがよかったのか悪かったのかわかりませんが、そんな生活でした。

今は「やさぐれ」は卒業し、自宅も近いので、毎日帰宅していますが、企画作りの苦しみは相変わらずです。今日あたり、「神様」が降りてきてくれるといいのですが・・・。さて、どうなることやら。

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クローンをめぐるテレビ報道に思う

今年に入ってからの仕事は、なんだか「科学」づいています。とくにクローン関係のテーマを扱うことが多く、にわか勉強も強いられる日々です。

このテーマ、クローン牛の食用解禁をめぐり、いろいろな議論があった末、先日、政府の諮問機関が「容認=安全認定」を打ち出した経緯があります。しかし、相変わらず消費者の「不安」は根強い、という(よくある)図式です。

僕は仕事で関わっていたので、このニュースに関する報道を注意深くウオッチしていたのですが、とりわけテレビの報道番組を見ていると、キャスターがはっきりものを言わないことに、なんとも不満になります。

ES細胞でも、iPS細胞でも、こうした分野での研究成果がニュースになると、それはそれで伝えたうえで、精肉店の店頭に並ぶ人など、「街の人」の声を紹介しては、「なんだか不安です」「安全性がきちんと確認されるまでは・・・」といったコメントを流し、なんとなく両論併記でしめくくる。これが、ワンパターンの番組構成です。

これでよいのだろうか、と素朴に感じます。

十分な情報を持たず、勉強もしていない街の人が、こうした反応を示すことは、ある意味で当然のことでしょう。しかし、番組をつくっているスタッフ(キャスターを含め)は、それと同じ立場ではなく、先端の情報に触れ、いろいろなことを考えた末に、報道素材として選択して放映しているわけです。

「なんだか不安」であれば、何がどのように不安なのか、現行の進め方のどこに問題があり、どのように改善すべきなのか、提言する必要があるし、「安全性をきちんと確認する」ことが求められるなら、同じく、行政に対して、どんな作業が足りないのか、示すべき立場にあるのではないか?と思うのです。

僕が「不満」を感じるのは、ひとことでいえば「食い足りない」と感じるからです。

最大の懸念は、こうした言論によって、国全体が「思考停止」してしまうと、将来に大きなツケが回ってくることにあります。クローン技術は、いま話題になっている食品分野だけでなく、むしろ医療分野で、近い将来、世界の技術革新の最先端にくることは間違いないといわれています。再生医療や、極端にいえば「不老」に近い姿さえ、世界のメディアでは真剣に語られています。また、そういう時代になったとき、これも当然として噴出する、医療における深刻な「格差」問題(命を買える人と買えない人の格差)についても、同様です。現在、「ヒトのクローン」は世界のタブーであり、表向きはだれも研究していないことになっていますが、技術的には動物と同じことなので、「作ろうと思えば簡単」との指摘もあり、これも人類のあり方をひっくり返すような大問題です。

いまクローン技術革新に熱心なのは、もちろん米国をはじめとする欧米先進国を筆頭に、中国が急速に台頭しているとききました。「次の時代」の覇権を握るために、国家をあげて研究開発を急いでいる、というわけです。近い将来、この分野での研究開発の蓄積が、その時代の国力を左右することは間違いない、とみて、各国がしのぎを削っています。

その中で、相も変わらず「国は安全性をしっかり確かめてから物事を進めてほしいものですね~」といった、方向性さえ指し示さない、のんきなワンパターンスタイルに、メディアが陥っていてよいものなのか? それをよいことに、国会も行政も、世論の趨勢や外国の動きだけをみながら、「そこそこ、(日本は)遅れなければいいだろう」程度の認識で、主体的には動こうとしない。

かわいそうな気がするのは、世界の研究開発としのぎを削りながら、日々、研究室で格闘している研究者の方々です。iPS細胞で一躍、有名人になった京都大の山中教授が、日米の政府の研究支援の差について、ため息混じりで発言されていたのを報道で目にしましたが、そんな思いは、全国の研究者に共通するものでしょう。

メディアの姿勢について、さらに言えば、外国の事例を紹介することに消極的なことも理解に苦しみます。たとえばクローン牛の食用解禁については、すでに米国が、クローン牛の子ども(2代目=これはクローンではない)について、解禁されていると聞きます。輸入牛肉として日本に入っているのかどうかは確認していませんが。しかし、いま日本で展開されている、クローン牛の食用をめぐる議論は、すでに米国で論議済みであり、「次の段階」に移行しているわけです。当然、当初から賛否両論があったでしょうし、解禁された現在も、もしかしたら悪影響が出ているのかもしれないし、いや、問題なんてなかった、という意見もあるでしょう。いずれにしても、そこで行われてきた議論、いま行われている議論に触れれば、われわれが選択するべき道にについて、大きな示唆が得られることは、(常識として)当たり前だと思います。

日本の街の人の「漠然とした不安」より、すでに「クローン牛から生まれた牛の肉」が流通し、それを普通に食べている国の人たちが、これまで何を考え、いま何を思っているのか、それを知りたい!と思います。

両論併記という報道手法を否定するものではありません。安易に結論を示さず、賢明な視聴者・読者の議論を喚起することも、メディアの重要な使命だと考えます。しかし、ただ単に、現状をそのまま切り取って、「どうですか?」と聞くのではなく、一般の人がなかなか入手し、整理できない、さまざまな情報を提示したうえで、その問いかけをするのでなければ、意味がないと思うのです。

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最近気にとまったこと①

すっかり筆が止まってしまいました。。。

最近、気にとまったことをアラカルトで書くことにします。

■「政府高官」問題

例の「政府高官」問題で、いちばん「知りたかったこと」に近いものを、かの産経新聞・福島香織記者のブログで発見しました。

詳しくは読んでいただければありがたいですが、僕が以前に書いた「なぜ懇談に出席した記者の側からの証言が出ないのか」という問題への答えが、ちらりと垣間見えたような気がします。

つまり、そもそも当初、出席した記者の多くは「発言」をたいして気にもとめず、記事化するつもりもなかった。しかし、思わぬ事態(共同通信による配信)が勃発し、あわてて各紙が後追い記事を流すことになった。メモも録音もNGの懇談で、おまけに(重要視していなかったので)記憶自体が曖昧だから、その際の記者の判断はきわめて頼りなく、ある種「みんなで渡れば・・・」的なものだった??・・・・というものです。

こういう展開、僕はよくわかります。引き金が「共同通信」というのも(笑)。

こういう流れだとすれば、その場にいた記者が表に出て、堂々と証言するには無理がありそうです。すると、なおさら、国会に引き出された漆間さんが可哀想、と思います。裏の事情を知りながら、まるで漆間さんが「うそをついている」と決めつけたようにコメントしているテレビ司会者にも、うさんくさいものを感じます。

何がよくないか、考えると、こうした裏舞台の事柄――体の力が抜けるような情けないことも含めて――をもっとオープンにすべきだろうと感じます。いずれにせよ、多くの国民が「知らない」ところで、根拠のない言説が飛び交う事態は、何の解決にも改善にもならないだろうと。

福島さんのおかげで、ある程度の「真相」がわかりました。感謝です。

(・・・・このアラカルト、随時、続けていきます)

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小沢代表の会見 いまだ残る「欠点」

西松建設による違法献金事件で、民主党・小沢代表の記者会見やぶら下がり取材の光景を、ちょくちょくテレビで目にするようになりました。この方は普段、政権交代を狙う野党第一党の党首としては、テレビを中心とするマスコミ露出が少ないので、いろいろ、気づかされることがあります。

小沢さんの記者会見についての「総論」じみたものは、昨年9月に当ブログで書きました。

そこで指摘した、小沢さんの会見での欠点は、最近はかなり改善しつつあります。いよいよ追い詰められ、エネルギーレベルが高く維持されているのが要因だと思います。(この「改善」についても当ブログで最近、触れています。(※ 記事①記事②

ただ、どうしても直らない欠点が、ひとつあります。

質疑の際、質問した記者に対し、「あなたは・・・」を多用するという傾向です。

これは、厳しい質問や不利な質問を受けたときに表れる傾向で、「あなたはそう言うけれど・・・」「あなたはそう考えるのかもしれないが・・・」と、回答の中身を述べる前置きとして、使われます。つまり、「お前とおれの考え(前提)は違うぞ」「お前が質問の前提として考えていることは間違っているぞ」と、答える前にひとこと断っている、あるいは軽く牽制のジャブをかましている、ということでしょうか。

記者会見はもとより、通常の取材応対でも、「目の前の記者とケンカするな」は、基本中の基本です。なぜなら、ケンカして、仮に相手を打ち負かしたところで、結局、記事や番組のかたちでその顛末が世に出るとき、すべてのコントロールを握っているのは、「あちら」(メディア)側だからです。

記者会見の質疑で、質問する側は当然、「あなたは・・・」と聞いてきます。それに対し、質問を受けるこちら側が、「あなたは・・・」とやり返し、「1対1」の土俵に持ち込むような手法は間違いです。とりわけ、テレビで放映される場合、かなりマイナスになる危険が大です。

というのも、(ここではテレビを想定して書きますが)オンエアされるとき、質問した記者の姿はまず映りません。質問の音声さえはっきり聞き取れないことが多く、視聴者にとって、「質問者」の存在はきわめて希薄なのです。その点では、テレビは「回答者」のみを映し出している、といえるかもしれません。

一方の当事者の姿が見えないところで、「1対1のケンカ」を演じてみせたところで、テレビの前の国民には「???」。何をムキになっているのだろう、何を焦っているのだろう、次の総理大臣といわれる人にしては・・・・、という疑念を抱かせるだけです。

では、そこで提示された「質問」とはいったい何なのか(視聴者はどう認識しているのか)、と考えると、これは、特定の人物(記者)が発した意志ではなく、「国民の多くが感じている疑問/問いただしたいこと」を、どこかのだれかが代弁した、といった位置づけではないか、と。

すると、回答する側にとって大事なことは、飛んできた質問から「質問者」の個人的属性を除外し、国民の多くが質問をしているのであり、目の前にいる「質問者」はそれを「代読」しているに過ぎない、くらいの認識をつねに持つことだろうと考えます。

小沢さんが多用する「あなたはそう言うが/そう考えるのかもしれないが(おれの考えは違うぞ!)」のフレーズは、国民(視聴者)から見て、この質問内容や前提としている考え方はどうなのだろう? という思考パターンから、検討し直すことが必要だと思います。すくなくとも「あなた」は使わない方がよいでしょう。

記者の質問内容や前提が、多くの国民の興味関心や価値観とマッチしたものなら、誠意をもって回答すればよいし、かなりずれたものであれば、それを修正すればよいのです。ただ、その際、「あなたは間違っている」、ではなく、「国民の多くは違う認識を持っているのではないか」「国民はむしろ○○と考えているのではないか」といった具合に、国民(視聴者)を味方につける言い回しをすることが重要だと思います。

実際、記者会見の質疑をテレビで見ていると、ピント外れだったり前提がこじつけ気味だったり、視聴者として「えっ?」と違和感を感じるような質問は、結構あるものです。

さて、麻生首相にしても、毎日のぶら下がり会見で質問した記者を問い詰めたり、よくやっています。意固地になるのか、それとも若い記者をからかうことで余裕を見せたいのか、そういう振る舞いが「麻生カラー」だと信じているのか、よくわかりません。しかし、そうして撮影された映像を生かすか殺すか、生かすならどのような演出で使うのか、ご自身のコントロール権限はゼロであることを、どこまで認識されているのでしょうか。。。僕の印象では、こうした記者とのやりとりが、麻生首相に有利なかたちでオンエアされたケースを、ほとんど目にしたことがありません。

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「映像」にはまっています

最近は読書からしばらく離れ、もっぱら「映像」にはまっています。

以前にも書いた「NHKオンデマンド」がけっこうおもしろく、すでに、

① NHKスペシャル 地球大進化 46億年・人類への旅(全6回シリーズ)

② NHKスペシャル 恐竜VSほ乳類 1億5千万年の戦い(全2回シリーズ)

③ NHKスペシャル 映像の世紀(全6回)

・・・を購入。①②はすでに見終え、いま③の途中です。

「地球大進化」は、地球の歴史46億年を60分×6回で俯瞰しようという、ものすごい企画ですが、いや、おもしろかったですね。

「恐竜VSほ乳類」は、恐竜時代を生き延びた、われらがご先祖様の労苦について、それを助けてくれた仲間たち(昆虫とか、花とか)も含め、じっくりと描いています。

こういうものは、書籍で知識を得ることもできるのですが、やっぱり映像のほうが理解しやすいし、かかる時間も短くて済むし、なにより頭に残りますね。

いま途中の「映像の世紀」は、僕の仕事上もたいへん参考になり、示唆に富む内容です。この番組は、歴史の勉強という側面もあるのでしょうが、僕にはむしろ、「映像学」の授業のように感じられます。

ちょうど20世紀の幕開けとともに世に出た「映像」技術が、どれだけ人類に(良くも悪くも)大きな影響を及ぼし、時の権力者たちがそれを利用したのか、よく理解できます。メディアリテラシーの教科書にもなると思います。

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沈黙は金なり?

そろそろ西松建設事件関連のエントリは終わりにしようと思っていたのですが、「政府高官」こと漆間官房副長官が国会答弁や記者会見をしているのを見ていると、やはりひとこと言いたくなってしまいます。

問題の懇談はオフレコで、メモも録音も撮影もNG。だとすると当事者の記憶しか手がかりはないわけで、漆間氏は、問題となったような発言はしていない、と主張しています。

これに対抗できるのは、彼の発言を聞いて記事を書いた、当の記者たちしかいません。ほかの人間がどう詮索しようと、真相解明には意味がありません。

しかし、朝日読売毎日をはじめ、どの記事を読んでも、記者側からの突っ込んだ検証はまったく出てこないのです。「私は確かにこう聞いた。だから、こう書いたのだ」と、名前も顔もさらして、証言する記者はいないのか?・・・こう疑問に思うのは僕だけでしょうか??

日本政府の最高議決機関である閣議は毎週火曜と金曜の午前に開かれますが、それぞれの前日、月曜と木曜に「事務次官会議」が開かれ、翌日の閣議にかける議題を決めます。その会議を取り仕切るのが、(政務ではなく事務=官僚の)官房副長官の役割。つまり、漆間氏には、おそろしいほどの権力が集中しているわけです。

その人物の本音が聞けるオフレコ懇談は、メディアにとって、とても重要な情報収集の場となるわけです。それを失いたくない、ということなのか?

どんな事情があるにせよ、やっぱりおかしい、と思います。

次回から、この事件とはしばらく離れ、いろいろな話題を取り上げたいと思います。

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「政府高官」現る!!

やれやれ。「政府高官」とは、この人だったのですね。

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■毎日新聞記事

<違法献金>「自民党に波及せず」発言は漆間官房副長官

 河村建夫官房長官は8日朝のフジテレビの報道番組で、西松建設の違法献金事件で、「自民党議員には波及しない」と発言した政府高官は、元警察庁長官で事務方トップの漆間巌官房副長官だと明らかにした。民主党は国会で発言者の特定を目指す姿勢を示しており、政府側から公表することで早期の幕引きを図った。

 河村氏によると、漆間氏は「記者との懇談の場で聞かれた。特定の議員への影響や捜査の帰すうに関するような説明をした覚えはない」と、一般論だったと説明したという。ただ、河村氏は、漆間氏が警察官僚出身なことから、「極めて不適切で、誤解を招く発言だった」として厳重注意にした。

 漆間氏は5日、首相官邸で定例の懇談で「この件で自民党の方までやることはないと思う」と、自民党議員に捜査は拡大しないとの認識を示した。懇談は、発言内容にニュース性があると判断すれば、名前を伏せて報道できるルールになっていた。毎日新聞も加盟する内閣記者会は7日夜、漆間氏に名前を公表するよう求めたが、「オフレコ扱いのものを、さかのぼってオン(公表)にすることはありえない」と拒否された。【坂口裕彦】

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それにしても・・・・

『懇談は、発言内容にニュース性があると判断すれば、名前を伏せて報道できるルールになっていた』のに、

『毎日新聞も加盟する内閣記者会は7日夜、漆間氏に名前を公表するよう求め』たところで、

『「オフレコ扱いのものを、さかのぼってオン(公表)にすることはありえない」と拒否された』のは、

至極当然のことだと思います。

やはり、「前提」が間違っているのではないでしょうか??

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いま民主党のPR担当だったら

・・・何もできないだろうと思います

何か、このブログで戦略めいたものを書いてみようと、考え始めてみたものの、やっぱり「ダメ」ですね。

その理由は、以前のブログ記事で書いたことと、ほぼ同じです。総大将の「行く末」が決まらない段階でPR戦略を描いたところで、たいしたものは出来ないし、それ以上に、外部のPRコンサルタントとして、その戦略を政党内部で「実行」するのは、(現実問題として)ほとんど不可能だからです。

せいぜい言えることは、「(国策捜査といった)検察批判」だの、「(捜査情報をメディアに漏らした)『政府高官』批判」だの、「おれたちだけじゃない。自民党もやってるぞ!」という趣旨で喧伝することを控える、ことくらいでしょうか。

自民党・二階氏側の疑惑に、捜査がどう展開するのかわかりませんが、どうなろうと、小沢さんの秘書が起訴されるタイミングが、先にやってくるのは間違いありません。また、「小沢事件」と「二階事件」と、どちらの政治的・社会的なインパクトが大きいか、も自明のことです。いま検察の捜査に牙を向けても、あと2週間もたてば、それはそのまま跳ね返ってきますから。。。

なんだか情けない限りですが、残念ながら、僕としては、こんなものです。

民主党はいま、どこかのPR会社と契約しているのでしょうか。だとしたら、そのチームはイバラの毎日を送っていることでしょうね。

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「政府高官」ってだれだ!?

ちょっと面倒ですが、次の3本の記事を読んでみてください。

政府高官発言が波紋=自民も激怒、官邸は火消し-西松献金事件(時事通信)
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009030600848

西松建設事件 政府高官「自民側は立件できない」(朝日)
http://www.asahi.com/politics/update/0305/TKY200903050292.html

民主、献金事件高官発言に猛反発  参院予算委で追及へ(共同)http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009030601000908.html

西松建設から民主党・小沢代表の資金管理団体に「違法な献金」が渡り、秘書が逮捕された事件で、「政府高官」が、自民党へは捜査の手が伸びないという趣旨の発言をした、それを聞いた民主党、さらには自民党までもがいきり立っている、という話です。永田町は大騒ぎのようですね。

しかし。。。。

「政府高官」って、いったい「だれ」なんですか!?

その人物がだれなのか、わからなければ、これらの記事を「読まされる」読者は、その発言の信ぴょう性も、倫理的に問題があるか否かも、なんら判断できないではないですか!

読者をバカにするな! と怒鳴りたくもなります。

なぜこうなるのか、その種明かしは簡単。政治部の取材では、聞いた話を絶対に引用して使わない「完オフ」(完全オフレコ)とか、「引用可(ただし匿名)」とか、いろいろな「ルール」があるからです。

これは、たいてい「懇談」と呼ばれる、各社の担当記者が要人を囲んで、「非公式」に、ざっくばらんな話を聞く、という取材の場で行われる慣習です。

匿名での引用ができる場合、その情報源をどのように「表現」するかも、ルールがあります。今回は、そのルールにおいて、「政府高官」と称されるべき人が、コメントを発したというわけです。

僕は政治部経験はないので、これが具体的にだれのことなのか、さっぱりわかりません。おそらく、首相官邸の要職にある人だとは思いますが。

ただ、記事を読む限り、民主党も自民党も怒っているので、発言の主がだれなのか、永田町の皆さんは、とっくのとうに知っているようです。知らないのは、読者だけ。

政治取材では、ジャーナリストも「プレイヤー」として、「永田町劇場」の登場人物になることは、ずいぶん前のブログ記事で書きました。ここで指摘した記事は、その典型であり、悪い側面がもろに出たケースだといえるでしょう。

記事を書いた記者に「これでいいのだろうか」という疑問がゼロだったとは、思いたくないです。逡巡の気持ちはあったのだろうけれど、長年の慣習があるし、他社との「合意」に基づくルールをいきなり壊すこともできないし、なにより発言の主との間のルールがあるし・・・と考えたのか。

どんな事情があるにせよ、もう、こうした記事の書き方は、やめるべきだと思います。

・・・・政治記者の皆さん。あなたは、だれに向けて記事を書いているのですか?

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「小沢会見」を評価した理由

小沢さんの会見から1日半、予想通り、新聞やテレビが次々に「続報」を飛ばしています。

グーグルニュースで、新しいところをいくつか拾っただけでも・・・

小沢氏側、3団体への献金分散・金額を指示小沢氏側、3団体への献金分散・金額を指示(読売)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090305-OYT1T00681.htm?from=navr

小沢氏秘書、下請け迂回献金も認識 西松側に入金催促(朝日)
http://www.asahi.com/national/update/0305/TKY200903050174.html

西松建設の献金3億円 小沢氏側要請、十数年間で(日経)
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090305AT1G0500K05032009.html

少なくとも秘書の逮捕容疑(虚偽記載)を裏付ける情報は、すでに十分すぎるほど出てしまいましたね。当然のことながら、東京地検特捜部が、こんな時期に「一か八か」で勝負をかけるはずはなく、外堀も内堀も固まっていたから着手したことの証明といえるでしょう。

起訴されれば、さすがの小沢さんも、「潔白を信じる」として、代表の座にとどまるわけにはいかないでしょう。

ところで、昨日のニュースを見ていたら、フジテレビで木村太郎さんが「危機管理の観点からみて、この会見はどうなのだろうか?」という趣旨の問題提起をされていました。推測するに、「そんなに(潔白だ、謝罪しないと)言いきってしまって、後で『嘘つき』になるリスクを考えないのか」という意図からの発言でしょう。これは、とても常識的な見方だと思います。

もし、小沢さんが民間企業の経営者として、同じ立場に立っていたら、捜査当局との対決姿勢も含め、あれほどきっぱりと、言いきることはしないでしょう。予期できない今後を考え、いろいろな「保険」をかけておくのが、危機管理の定石です。

しかし、ここが政治家、とりわけリーダーの辛いところですね。

小沢さんは、田中角栄さんに仕えた時代から、特捜部について詳しく知る政治家です。特捜部が政治家関連で強制捜査に着手する際、どの程度の証拠固めをして臨むのか、公然と特捜部を敵に回したとき、どんな影響が出ることになるのか、誰よりもよく知る人物だろうと思います。

だから、会見では堂々と潔白を主張し、恣意的な国策捜査だと批判してみせましたが、おそらく本音では、少なくとも秘書が20日後に起訴され、小沢さん自身が代表を辞任せざるをえなくなることは、当然のこととして覚悟していたのだろう、と推測します。つまり、総選挙では、自分以外のだれかが民主党代表として先頭に立つのだ、ということを。

その条件で、民主党へのダメージを最小限に食い止め、選挙で自民党に勝つには、どうすればいいのか?

小沢さんが築いてきた、ある種の「神話」を、できるだけ消耗させずに、次の指導者へ引き継ぐことが大事になります。民主党において小沢さんは、鳩山さんや菅さんとは違うイメージを国民に抱かせる存在だと思います。お坊ちゃんイメージが付きまとう鳩山さん、舌鋒は鋭いが「批判ばかり」の印象が強い菅さんと異なり、やはり「剛腕」で、「経験豊か」で、「寛禄」がある。国会をさぼって地方遊説ばかりしていても、そんなに激しく批判されない、いわば「オンリーワンのキャラ」を確立しているわけです。

これが、(現時点では)秘書による政治資金規正法違反の「形式犯」容疑だけで、すんなり「ごめんなさい」「辞めます」となったら、かのバンソウコウ大臣ではないですが、国民が「あ~~ぁ」と呆れ、がっかりするような、情けない幕引きとなります。少なからぬ国民が、民主党=小沢さんに抱いていた「夢」が、瞬時に崩壊します。

だから、小沢さんは、自身が辞任することは自明と覚悟したうえで、自らの「残像」を党内、さらには国民に対し、強烈に印象付ける必要があったのではないでしょうか。次のリーダーに変わっても、「小沢神話」のプラス効果を維持したまま、総選挙を迎えられるように。

幸いにして事件は、(くどいようですが)現時点では、秘書が犯した「形式犯」に過ぎません。西松建設側からは自民党議員にも献金が流れている。バランスを取るため、特捜部はきっと自民党側にも捜査を入れてくれるはず。民主・自民の「相打ち」になれば、ほぼイーブンに戻せる。・・・そう考えたかどうか。

ただ、この推測には条件があります。捜査が小沢さん自身へ伸びないこと、そして、容疑が政治資金規正法の虚偽記載にとどまっていること、です。

つまり、小沢さんは何も知らなかった(そんな細かいことまでチェックできなくても仕方ない)のに、秘書が先走って法に触れてしまった。秘書の潔白を信じ続けた小沢さんは潔く、きれいに身を引く・・・という図式を保ち、少なからぬ国民に「小沢神話」の余韻を抱かせながら総選挙を迎えるには、この2つの条件が必須です。

そう考えると、いま最も危険な流れは、贈収賄の可能性を匂わせる、この話題でしょうね。このネタの続報がどんどん出てくるようだと、たとえ立件に至らなくても、小沢さんどころか、民主党に壊滅的なダメージを与えることになるでしょう。

いろいろと勝手な推測を書き連ねてきましたが、この事件に関して、僕自身は何の情報も持ち合わせていません。政治部や社会部の記者が読んだら、一笑に付すであろうことは承知のうえです。

ただ、昨日のブログ記事で、僕が小沢会見を「高得点」だと評価した、その前提となった考え(推論)について、明らかにしておくほうが、理解されやすいと思い、あえて書きました。このような前提に立つと、小沢さんは最善を尽くしたな、よく頑張ったな、と考えたわけです。

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小沢会見 ――「崖っぷち」で映える

民主党の小沢代表が今日の午前、会見して、「やましいことは何もない」と、検察への対抗姿勢を鮮明にしました。

小沢さんの会見生放送は久しぶりなので、ドキドキしながら見ていましたが、この状況での記者会見としては、(小沢さん・民主党サイドからすれば)最善を尽くし、ダメージを最小限に抑えた会見だったと思います。

というのも、すでに公設第一秘書が逮捕されているわけで、小沢さんが少しでも非を認めれば即、「代表辞任」が避けられない状況だからです。そうなれば、民主党の選挙戦略はいちから作り直し、イメージ戦略もやり直し。これまでの「貯金」が、吹っ飛んでしまいます。

だから、検察当局とケンカになろうが、(おそらく)根拠も情報もないのに「国策捜査だ!陰謀だ!」と主張してヒンシュクを買おうと、「秘書が逮捕されたんだから謝罪くらいしたら?」という、もっともらしい批判を浴びようと、いまの時点では、これで押し通すしかなかったわけです。

事件の構図はきわめて単純。事実上、西松建設からの企業献金だったものを、政治団体からの献金として受け取り、そのように政治資金収支報告書に記載した。つまり、虚偽記載の疑い。その担当者である秘書が、逮捕された。小沢さんサイドは、「秘書はあくまで政治団体からの献金と認識していた。適法な処理だ」と。よって、当面の捜査のポイントは「秘書は西松建設からの企業献金と認識していたか、否か」にあります。

その点、小沢さんは自信があるように発言していますが、相手は百戦錬磨の東京地検特捜部です。そういうリアクションが出ることくらい、計算済みでしょう。20日間の勾留を経て(もしかしたら再逮捕で延長?)起訴に至るまでに、秘書(=小沢事務所)と西松建設が「少なくとも、きわめて濃密な関係だった(=企業献金だったことを秘書が認識していて当然)」ことを匂わせる情報とシナリオを、マスメディアを通じてどんどん流すことになるでしょう。

小沢会見からたった1時間余り、早くもNHKの昼のニュースで、「西松建設の関係者が、『(小沢氏の地盤である)東北地方での公共工事受注を期待して献金した』と、特捜部の聴取に供述した」というニュースが流れました。

ニュースソースは、例によって「関係者への取材」とのこと。つまり、検察幹部が、夜回りに来たNHK記者にネタを提供した、ということでしょう。今後、この手の「続報」が、各メディアで次々と打ち出され、少なくとも秘書レベルは「クロ」、との流れが固まっていくのだろうと推測します

問題は、小沢さん本人の「認識」と「関与」ですが、そこまでいくか(実際にあるか)、可能性は低いだろうと思います。さすがに時期が時期ですから、あまりに政治的影響が大き過ぎます。あとは、与党議員への捜査の波及と、政治資金規正法違反以外の、贈収賄などへの発展がどうなるか??

いろいろ想像は膨らみますが、やはり、なんといっても、あと6か月以内で総選挙です。事件を深く広く展開させるには、適した状況とはいえないでしょうね。

小沢さんは「喋り下手」といわれ、会見が苦手というのが定説です。しかし、今日の会見は、歯切れも良かったし、あわてることもなく、記者会見の採点としては、かなり高得点でした。

その要因を分析すると、①さまざまな意味で「エネルギー」がみなぎっていた(エネルギー・レベルがきわめて高い) ②「やましいことは何もない」という、きわめてシンプルなメッセージで押し通した(ブレる要素がなく、言葉が単純明快・分かりやすくなる)・・・ことに尽きます。

崖っぷちに立つと、人は普段以上の力を発揮する、ひとつの例といえるかもしれません。

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遅すぎる転換

麻生首相が、定額給付金を受け取り、地元で消費するように、閣僚に指示を出しましたね。

なんで今頃・・・という気持ちです。

それにしても、麻生首相の「給付金には生活給付と消費刺激の2つの目的があった。生活給付ならば私がちょうだいするのは『さもしい』という気持ちがあったが、今は消費刺激の比重が大きくなった。消費刺激ならば私も参加し、何らかの形で地元で消費に充てたい」(3月3日付産経新聞朝刊)とは、どういう理屈でしょうか?

所得制限なしで全国民に支給する、という制度設計がなされた時点で、この政策は生活給付ではなく、「消費拡大=景気刺激」が主目的であることは自明のことです。何をいまさら・・・。

以前にブログに書きましたが、当初から「明るく」「前向き」に、「オレも使う。みんな使って、景気を良くしよう!」というスタンスで一貫していれば、こんな騒ぎにはならず、内閣支持率も、いくらかマシだったのではないかと思います。そもそも、国民におカネをあげる(税金が返ってくる)という、(専門家や評論家はともかく)ほとんどの人にとってハッピーな政策だったのですから。。。。

もう、この時間、失ったものは、埋められないでしょう。

・・・と書いていたら、民主党・小沢代表の公設第一秘書が逮捕!との速報がテレビに。久しぶりに、腰を抜かすほど、びっくりしたニュースです。朝日新聞が、今日の夕刊でスクープしていたのですね。われわれからすれば、夕方のテレビニュースと「同着」ですが、マスコミ業界的には大スクープです。いまごろ、各社の社会部・政治部は大騒ぎになっていることでしょう。

小沢氏の代表辞任は、避けられないでしょうね。総選挙の行方を左右する、とんでもない「サプライズ」が飛び出しました。

この事件の進展、注意深くウオッチしていきたいです。

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「バンキシャ!」誤報事件に思う

日本テレビの「バンキシャ!」で、「誤報」が明らかになり、番組で謝罪が行われました。

岐阜県の土木事務所が、裏金をねん出するため、工事代金に水増しして業者に発注、業者が200万円を発注側に還流させていた、と昨年11月にスクープとして報道。しかし、番組で匿名証言を行った、当の業者だという男の話も、その際、証拠として示された銀行明細も、全部ウソだった、というのが顛末です。

「バンキシャ」では福澤キャスターが謝罪しましたが、(僕は見ていませんが)その内容は番組HPに書いてあることとほぼ変わらず、「男が証言を翻した」こと以外に、「なぜウソを見抜けなかったのか」「証言内容をどのように検証し、何が足りなかったのか」については、まったく触れられなかったそうです。(参考記事

「バンキシャ」の対応は、最悪だと思います。

こちらが信用していた人物の証言が全部ウソだった。証拠書類まで改ざんされていた。これでは、捜査機関でもない我々がウソを見抜くのは不可能。つまり、だまされた我々ではなく、だました相手が悪い。ただ、視聴者や関係者に迷惑をかけたことは事実なので、その点は謝罪する。

・・・このような考え方なのだと推測するしかありません。

もう3年前になるのか、民主党の衆院議員の永田さんという人が「偽メール事件」を起こしました。(永田さんは議員辞職した後、最近になって自殺しています)

自民党の武部幹事長(当時)の親族が、ライブドアの堀江氏から多額の資金提供を受けた、という「疑惑」で、永田さんが頼った唯一の「証拠」は、堀江氏が社内向けに送金を指示したというメールのプリントアウト1枚だけ。改ざんどころか、パソコンを使えばそっくりそのまま「作成」することも可能な「紙1枚」、おまけにその出所も定かでない、こんなものを「証拠」に、国会で一か八かの大勝負に出たのです。結果はみなさんご存知のとおり、100%ガセネタでした。

今回の「バンキシャ」の取材・報道は、これに近いシロモノだと思います。

謝罪の中で、裏付け取材の経緯を説明し、その問題点を自ら分析することをしなかったのは、それが「できなかった」からでしょう。おそらく、匿名証言者の証言と、「証拠」とされた銀行記録だけをもって、「それいけ!」でオンエアしたのだろう推測します。

ただ、行政機関である土木事務所が裏金作りのため、水増し(架空)発注を行い、業者から200万円のキックバックを銀行振り込みで受けていたという話が本当であれば、これはとっくに警察・検察が把握し、捜査に動いているべき案件です。

なにしろ、行政側には必ず「発注書」が残り、これがそのまま公文書偽造の証拠になる。発注書には承認印が押してあるので、どの役職者が関与・承認したかも一目瞭然。また、おカネの動きは銀行処理なので、これも歴然と記録が残る。そして、県側におカネをバックしたという業者自身が、テレビ番組で証言している。

これほど「証拠」が揃っていれば、明日にも事情聴取、逮捕することもできそうな、“簡単な”事件です。

報道機関であれば、オンエアする前に、県や土木事務所の幹部に「ネタを当て」るとともに、然るべきレベルの捜査幹部に「カンを取り」ます。そうすれば、少なくとも、このネタが「本当」か「デタラメ」か「かなり怪しい」か、くらいのの区別はつきます。いや、テレビですから、まずは県側の責任者に取材して映像(コメント)を確保するのが必須だといえますね。

そういう「常識」を、「バンキシャ」のスタッフが持ち合わせていたのかどうか。

「バンキシャ」は、権力側にとって、ときどきだけれど、かなり「キツイ」番組をつくってくる、ちょっとやっかいな存在でした。今回の誤報と、(それ以上に)謝罪で取材経緯の説明と反省をしなかったことにより、その「パワー」は大きく損なわれることになるでしょう。簡単にいえば、今後、「ナメられる」ということです。

本当に大きな、社会を揺るがすようなネタは、それなりの地位をもつ、重要な情報にアクセスできる人物からもたらされるものです。そして、そういう人物は、「能力」と「信用」のある報道機関・ジャーナリストにしか、その情報を提供しません。下手に料理され、ネタをつぶされたり、自分の立場が危うくなるような事態を避けるためです。

「バンキシャ」が、あくまで「報道」の立場に踏みとどまろうとするなら、さらに自らの恥をさらしてでも、「なぜ我々はだまされたのか(検証できなかったのか)」を語る必要がありました。「能力」はともかく、「信用」をつなぎとめることはできたかもしれないからです。しかし・・・。

もしかしたら、半年後、報道色がすっかり抜けて、バラエティ番組に様変わりしているかもしれませんね。そんな気がします。

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「かわいげ」ある大人とは

また産経新聞・福島香織記者のブログです。最近、すっかりファンになってしまいました(笑)。

この記事、「女性記者」について理解するために、とてもためになりますね。記者のみならず、営業でもなんでも、外部の人と接する仕事全般について、参考になりそうです。

この記事でいう「かわいがられる」要素、僕のような仕事でも、きわめて重要だと思っています。30代前半ごろまでは、仕事でお付き合いする相手が、たいてい年上だったので、それほど苦もなく「かわいがられる」ことができたのですが、最近はちょうど同年代か、年下の人と相対することが増えてきました。そうなると、ちょっと工夫しないと、なかなか「かわいげ」は出せないものだ、ということを強く感じています。

逆に見れば、僕が「若手」として記者やPRマンをしているとき、自分より年長の人と会うことがほとんどだったけれど、「あっ、この人には『かわいさ』があるな!」と気づくことがしばしばありました。それは政治家だったり、大企業のトップだったり、80歳のご老人だったり、さまざまですが、そんなときは、なんだか得をしたような嬉しさを感じたものです。

おそらく、その「かわいげ」とは、相手が年下だから、年上だからと使い分けるものではなく、その人物に常に備わっている要素なのだろう、と。これは推測です。

では、その要素のミソとは何か? ・・・・考えてみると、けっこう難しいですね。

誠意や情熱、礼儀、(ほどよい)遊び心、などと、思いつくまま挙げてみても、どこかありきたりです。

あえて言いきってしまえば、「瞳が輝いている」ことかな。。。

僕の経験を振り返ると、とくに年上の人で、「この人、かわいい!」と感じた相手に共通する印象は、少年(少女)のような、キラキラと輝く瞳です。

ただし現代社会では、人の瞳をじっくり観察するには注意も必要です。

前職で、ある女性社員がとてもエキゾチックな瞳をしているので、気になって、あるとき、思い切ってたずねたことがあります。「あの・・・瞳の色、とても変わっていますよね」(ドキドキ)。すると、「あぁこれぇ~カラコンなんでぇ~」。

ずっこけました。

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「読書感想文」に思う

以前、日本の国語教育に関する考えをブログに書きました。今日はその続編で、「読書感想文」を取り上げます。

僕は小学生の時分から、この「読書感想文」なるものが大嫌いでした。

まず、書くことの「目的」がさっぱりわからない。いくら考えてもわかりません。今でもわかりません。

だから、「どう」書けばいいのか、いつも悩んでいました。

外国ではどうなのか知りませんが、いかにも日本的というか、文部省(いまは文部科学省)のお役人が、考えつきそうな発想かもしれませんね。

「読書」と「作文」、この二つを夏休みの宿題として、まとめてやらせれば一石二鳥。「読書」では、日本の名作文学を読ませるようにしたらいい。日本文化への理解や教養も身に付く。日本の国語教育として、なんとよくできた「課題」ではないか! ・・・という具合に考えたかどうかはともかく。

読書をさせたければ本を読ませればいいし、作文をさせたければ文を書かせればいい。日本文学の知識と理解を深めさせたければ、そうすればいい。素朴に、そう思います。

小学何年生だったか、はじめて読書感想文を書かされたとき、みんな「何をしていいのか」がわからず、先生から「マニュアル」めいた指導を受けたような記憶があります。

最初に「あらずじ」、次に「僕が感動したこと(部分)」、「なぜ感動したのか」、「自分の体験や身の回りの出来事を引き合いに、その『感動』を掘り下げる」、そして「これから僕は○○していきたい!」…といった流れ?

中学、高校と進むにつれ、レトリックは高度化していくものの、次の要素はだいたい変わりません。

①作品から受けた「感動」「感銘」「賛意」

②作品から離れた領域(自分の体験や見聞)を舞台にした「感動」の展開

③世間一般の「道徳」「良識」に合致する範囲での、「私はこうしたい」という「誓い」

たとえば「走れメロス」を読んで、「メロスはアホではないか? 私なら、もっと楽して成功する策を考えるのに」という論調は歓迎されないし、三島由紀夫の「金閣寺」が題材なら、主人公の「美意識」への(少年少女らしい)畏怖の念を、多少はおどろおどろしくも書いてみる・・・などというのが、「ちょっとできる子」の「お作法」でしょう。

いずれにしても、書く前から、だいたいの「結果」が見えている世界です。予定調和というべきか。
だから、書いていて、実につまらない。

もっと根本的な問題は、本を読ませて、「感想」を書かせる、という、読書感想文の基本コンセプトにあります。

「感想」は、「考える」ものではなく、「感じる」ものです。

暑いから「暑い」、美味しいから「美味しい」。赤ちゃんだって、「感想文」は書けなくとも、それを態度や(つたない)言葉で表現することはたやすいでしょう。それと同じことを、ヒゲ面の高校生にやらせているようなものだと思います。

僕が不思議で仕方なかったのは、僕が書いた読書感想文を、教師がどのように、どんな視点で「評価」するのだろうか、という点です。

人の「感想」を「評価」できるものでしょうか?

それでも、赤ペンでハナマルだのがついて返ってくると、うれしいものだから、あまり深く考えないようになってしまいます。

仕事をしている人なら、だれでもわかることです。「感想」というのは、個人の「趣味」の範疇でしかありません。

「仕事をする=生きていく」ために重要な語学力(聞く・理解する・話す)、文章力(読む・理解する・書く)とは、そのほとんどが「論理」の領域にあるのではないでしょうか。

指示を出すのも、それを理解するのも、振り返って反省するのも、すべて「論理的思考」なくしてはできません。一方、「感想」は、あまり役に立ちません。だから、国語教育に最も必要な要素は、論理的に「読み」「書き」「聞き」「話す」ことにあるのではないか、と僕は考えています。

では、その「論理」を研ぎ澄ますために必要なものとは、つまるところ「批評」の能力ではないか、と。本を読ませて、それに基づいて何かを書かせるならば、それは「感想」ではなく(文献に対する)「批評」であるべきではないか・・・と。

たとえば、僕がこのブログで、だれかが書いたブログや新聞記事などについて言及するとき、それは「批評」であるべきです。そうありたい、と、いつも思っています。

いま日本全国で、子どもたちに「国語」を教えている教師の皆さん。

いったいどんな気持ちで、考えで、あなたは、生徒の読書感想文を「採点」しているのでしょうか???

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「記者ブログ」とアルゲンと

新聞記者もブログを積極的に書く、という流れができているようです。産経新聞の記者(先輩・同僚もたくさんいます)が書いている「イザ!記者ブログ」は、僕のお気に入りです。

北京の福島香織さんが、CCTV(中国中央電視台)本社敷地内の超高層ビルが、なんと春節の爆竹の引火で全焼した、という信じられないようなニュースを、ブログで詳細にレポートしてくれています。

この火災自体がびっくり仰天ですが、それをネタに、CCTVの「特権意識」をあざ笑う中国大衆の心理とか、「爆竹禁止論議」の状況とか、まさに特派員ならではの、地べたを這うようなリアルな話がてんこ盛り。電車の中、携帯片手に夢中で読んでいました。

もし自分が特派員だったら(それほど立派な記者ではなかったけれど)、こんな記事を書いてみたいもんだ・・・、などと思いつつ。

しかし、複雑な気持にもなります。だって、この事件を伝える新聞記事(たとえば、これ)より、こちらのブログのほうが、はるかに面白い、という事実。(ただし、ここで例示した新聞記事はストレート記事なので、単純比較はフェアではありませんが)

新聞記者をはじめ、日々、ストレートニュース中心の報道に携わるジャーナリストは、それこそ、掃いて捨てるほどの「日の目を見ないネタ」を抱えています。取材ノート100ページのうち、記事になるのは、たったの1ページだったりする。しかも、記事になるとしても「字数」と「スタイル」という、やっかいな制約があります。

たとえば、福島記者のブログ記事、(スペースを含まず、正味で)3450字あります。いま新聞で主流は1行12字だから、287行。これを新聞に掲載するとしたら、1面まるごと使っても、(写真などを入れたら)とても足りないでしょう。だいたい、新聞記事は100行も書かせてもらえれば「大記事」で、ほとんどは数十行で書くものです。福島記者の書いた原稿を、仮に100行に縮めたら、おそらく、面白さは半減することでしょう。

もうひとつのポイント、「スタイル」については、詳しく説明せずとも(お手元の新聞をちょっと読んでいただければ)、その「特殊」さが、ご理解いただけると思います。

だから、記者は常に「インプットに比べてアウトプットがはるかに少ない」というフラストレーションを抱える、という宿命を背負います。(部署や担当によっては、この逆もあります。念のため・・・)

その「情熱」がほとばしるのが、アルバイト原稿(略して『アルゲン』)。週刊誌などの匿名の時事ネタは、ほとんどが新聞記者によって支えられていると言っていいし、政治家や経済人の著作のゴーストライターとしても、記者は「活躍」しています。

僕も社会部・経済部時代に、週刊誌にも書いていたし、「政治家本」「社長本」のゴーストも、かなりやっていました。「アルゲン」ですから、もちろんお金目当てではあるけれど、それ以上に、「好きなように、好きなだけ、書きたい!」という気持ちに引っ張られ、記者クラブで徹夜して、締め切りと格闘していたのを思い出します。

そう、そもそも「書く」ために記者になったのに、本業と別の場所でその欲求を満たす、というパラドックスにはまり、その自分を冷静に見つめたとき、「仕事を変えよう」と決めたのでした。

さて、冒頭にご紹介した「イザ!記者ブログ」、産経新聞のビジネスとしてどうなっているのか、よく分かりませんが、「書く喜び」に満ち溢れた、躍動感のあるブログに、いくつも出会えるのはうれしいことです。

ただ、それがどこへ「つながる」のか、どこへ「向かう」のか、これもまた、よく分からない。

うーん・・・、これ以上書くと、重いテーマにはまっていきそうです。続きはあらためて、メディア論として。

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コミュニケーションの醍醐味

このブログで「自殺がパロディになるとき」を書いたとき、かなり悩みました。自分の思いがあるから書こうとしていることは間違いないけれど、はたして真意がうまく伝わるだろうか? 誤解を招き、人を傷つけるようなことはないだろうか? テーマが重いだけに、難しい選択でした。

つくづく、「伝える」とは難しいものだと思います。自分の思いが強く、激しいときほど、伝えることは難しい。しかし、自戒をこめて言えば、「伝える」とは「技術」です。どのように言えば、書けば、うまく「伝わる」のか。

「伝える」ためには、さまざまなハードルをクリアしなくてはなりません。論理性の有無、妥当性の有無は、説得力(相手をして『受け入れる』気持ちにさせる力)に大きく影響します。感情の過度な高ぶりは、相手に警戒感を抱かせます。過剰に難解な表現は、理解の妨げになります。

こうした「技術」は、訓練しなくては身につかず、向上もしません。訓練とは、話し、聞き、書き、読み、そして考え、批評すること、これをひたすら繰り返すことでしか、成り立ちません。

あの記事を書いたあと、ある友人からメールが届きました。

僕はまったく知らなかったのですが、とても大切な人を、自殺で亡くしたそうです。

メールの中身は詳しく書きません。ただ、僕が訴えたことを理解してくれ、共感を示してくれました。そのうえで、複雑な、とても複雑な心境を綴ってくれました。

とても嬉しかった。

少なくとも、伝わった、という手ごたえがありました。そして、伝わる、とは、こんなにも嬉しいことなんだ、と。

10年も新聞記者をやり、数え切れないほどの記事を、世に出してきました。しかし、胸に深く突き刺さるような「反応」を感じたことは、数えるほどしかありません。

いま、このブログを書きながら、なぜだろう、と自問しています。その答えは、あのときの僕は、「僕自身」で文章を書いていなかった、から。「社会の木鐸」だの「ジャーナリズム」だの「悪を叩く」だの、いつも、自分以外の“ふんどし”で相撲をとっていたような気がします。

不思議なものです。

発行部数200万部の全国紙で記事を書くより、1日に50人程度の人々に読まれる「ミニコミ」媒体で記事を書くほうが、「コミュニケーションの醍醐味」を、はるかに大きく感じます。

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NHKオンデマンドを試す

NHKオンデマンド、最近、会員登録しました。さっそく、NHKスペシャル「地球大進化 46億年」(6部作)の第1作を購入し、ストリーミング(パソコン)で見てみました。なかなか面白かったです。

2つのことを強く感じました。

まず、NHKの番組製作能力の高さ。これは、お金とヒトの「かけかた」が、民放とは天と地ほど違うから当たり前ですが・・・。

もうひとつは、この「流れ」はもう、後戻りしないだろうな、という感慨。

59分間の番組を「315円」で買い、十分に満足しました。ひと月に10本、本当に見たい番組を見たい時間に楽しめて、しめて「3150円」が対価なら、僕は喜んで払うだろうと思います。

テレビについてあれこれ考えたこと、以前もブログ記事に書いたことがあります。今回、オンデマンドを体験してみて、さらに複雑な心境になりました。

今までの人生で、「ついに、皆様のご期待に応えて再放送決定!」…などと、ブラウン管から飛び出すメッセージにドキドキし、ありがたがっていた、自分自身と「テレビ」との間の、あの「関係」とは、いったい何だったのだろう、と。

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ローマの教訓

中川昭一財務省が辞任しました。前日には「予算案が国会を通ったら辞める」と仰っていたのが、変更になりました。当然のことだと思います。

さて、今回の事例は、危機管理を考えるうえで、とてもベーシックな教訓に満ちています。ポイントを挙げてみます。

①なぜ中川氏は会見出席を取りやめなかったのか?

――だれかが中川氏の「変調」に気づいていたはずです。大臣が「体調不良」で会見をキャンセルしても、同行している官僚なり副大臣、政務官なり、代役はいくらでもいます。それを進言した人がいたのか、いなかったのか?それは分かりませんが、推測するに、中川氏はそういう進言をだれからも「してもらえない」だけの“実績”が、過去に山ほどあったのでしょう。

②なぜ会見の途中で中川氏を「止める」ことができなかったのか?

――しどろもどろの会見が始まった時点で、「これはまずい!」と気付きます。とりわけ、保身の感覚に優れる官僚たちは、すぐに「最悪の結末」を予想したはずです。おそらく、あの会見の司会(仕切り)は財務省の官僚が務めていたのではないか。その人物が、すかさず「大臣は風邪のため(あるいは、風邪薬の影響で)きわめて体調が悪くなっておられます。お聞き苦しい点があるかと思いますが、ご本人の強い意向であえて出席しております。ご容赦ください」とでも割って入れば、だいぶ印象が変わっていただろうし、もしかしたら、中川氏は「やはり体調がすぐれない。申し訳ないが、中座させていただく」と、途中で退場する選択肢も取れたかもしれません。当然、批判は避けられませんが、会見後段の「なに?もう一回言って!」や「(質問者を探して)どこだ!」の失言は防げたはずです。

③会見後、すぐに辞任しなかった(させなかった)のはなぜか?

――政治では「アドバルーン」(観測気球)という手法が多用されます。周囲の反応を見極めてから対応を決める、というものです。今回のケース、ご本人が冷静に考えられる状態でなかったとすると、周囲がどう考えたかが重要です。ただ、現場での判断は意外に「難しい」ものだったと思います。というのも、「酩酊(一応、疑惑)」記者会見など前代未聞のことで、比較検討する材料がないからです。こういう状況にめっぽう弱いのが官僚。前例のない事態では思考回路がストップし、政治家にゲタを預けてしまう習性があります。麻生首相に報告はなされたと思いますが、どれほどの危機感をもって伝えられたのか? はなはだ疑問です。その結果、責任判断は先送りされ、さらに、「予算通過後に辞任する」という、なんとも中途半端な発言が出てしまう。あきれはて、怒り心頭の国民は、2度がっかりさせられることになります。この間の無為な時間の経過は、きわめて重大です。

中川氏の酒にまつわる危険性は、毎日新聞の記事でも指摘されているように、永田町関係者ならだれでも知っていることです。

政権の危機管理能力・意識の欠如はもちろんですが、僕が悲しくなるのは、中川氏の周囲に、たとえ後でどなられようと、「国のため」「本人のため」を考え、体を張ってでも「止め」ようとする人物がいなかったことです。

危機管理は「きれいごと」では済みません。僕の仕事でも、大げさでなく、クビを覚悟でクライアントに「言うべきこと」を言わなければ、あとで評価され、感謝されるような仕事はできません。それができるのは、青臭いようですが、クライアントへの愛着があるからです。

政治家としては頂点に近いところまでのぼりつめた中川氏ですが、そういう意識で仕えるスタッフは、ついに持ち得なかったということに尽きるのでしょう。

・・・・和歌山・大阪の出張から戻り、軽い風邪気味です。深酒はやめて、今夜はおとなしく寝ることにします。

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ローマの会見

中川昭一さん(財務相)が、ついにやってしまいましたね。。。。

本人は、風邪薬が効きすぎた、酒も飲んだが会見前ではない。。。などと釈明されています。真相は知るべくもありませんが、この方の場合、まっ先に「酒気帯び」と疑われるだけの“実績”をお持ちですから、まあ、何を言っても信じてはもらえないでしょう。

取材応対で、午前中から酒の匂いをぷんぷんさせて(二日酔いです、念のため)、まったく悪びれずにいる、そういうところが、ある意味、この人ならではの魅力であり、人気でもあったわけです。そんな国会議員、ほかにいませんから!

しかし、今回はさすがに「時と場所」が悪かった。

よりによってG7閉会後、各国のメディアも注視する会見、しかも日銀総裁と並んだ席で・・・。

おまけに、場所は麗しの都・ローマ。

名画「ローマの休日」のラストシーン。ローマで「行方不明」になったアン王女(オードリー・ヘップバーン)が、偶然知り合った通信社記者(グレゴリー・ペック)と、見るもの聞くもの初めてだらけの刺激的な「休日」を楽しんだ後、王族の日常に戻されて臨む記者会見。かの記者から「歴訪でいちばん印象深い街はどこか」と尋ねられ、「ローマ!」と言い放つ、感動的な場面です。

さて現実に戻り、今回の中川会見。この映像は、繰り返し繰り返し、今後も流されることでしょう。とりわけ女性層の、政府・与党への支持を大幅に減らすのは、間違いありません。(酔っ払いには男のほうが寛大ですから・・) この会見が、瀕死の麻生政権に「とどめ」を刺す可能性もあります。

そうなったら、「いちばん憎らしい街はどこか」と問われた麻生王子は、迷わず「ローマ!」と答えるのでしょうか。あまり見たくない「ラストシーン」です。

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「日本語革命」の只中で

日本で運営されているブログが1700万件もあり、世界一だという話、たしか本田哲也さんの「戦略PR」で知ったのですが、たまに小学生でも携帯でブログを書いている様子を目にすると、「なるほど、これはすごいことだな」と思います。

僕が子どものころ、「文章を日常的に書いている」人は、そうそういませんでした。いや、いたのかもしれないけれど、それは人知れずノートに綴る日記だったり、親にも友達にも内緒で書き進める空想小説だったり、いずれにしても、外部にはうかがい知れないことが多かったものです。いまのブログのように、他人に読ませる(他人が読む)ことを前提に、自らの思いを文章で「晒す」ことなど、ほとんどなかったし、そんな手段もなかった。

いったい日本人は、これほどまでに「書く」ことが好きだったのでしょうか?ならば、僕らが子どものころは、「書く」欲求があったのに、手段がなかったから、それを我慢していた?

ここのところ、よくわかりません。でも、手段がないなりに、教科書の挿絵やテストの裏紙にはいつも落書きだらけだったし、トイレの壁にも硬軟さまざまなメッセージが書き込まれていたし、やっぱり「書く」ことのニーズはあったのかもしれません。

それにしても、かつてよりはるかに多くの日本人が、他人に読まれる(なんらかの批評に晒される)という前提のもとで、それぞれが(本当の意味において)主体的に、日本語の「作品」を日常的に「発表」し続けているという事実は、重大なことだと思います。

絵文字がどうだとか、文体がだらしないとか、とかく年配の人は、こうした傾向にケチをつけたがるものですが、そんなのは、たいした問題ではありません。いつの時代も、文章のかたちや作法は変わっていくものだし、あの有名な「男もすなる日記といふものを・・・」じゃないですが、新しいものが世に出るとき、摩擦と批判の洗礼を浴びるのは当然です。

今の時代が特異(=刺激的)なのは、ネットと携帯という「道具」の影響で、従来なら「伝統」という高いハードルを越えながら、じわじわと普及していくべき「流れ」が、だれも止めることができないスピードと広がりで、津波のように押し寄せ、あっという間に世の中を席巻してしまったことにあります。これは、日本語の歴史上、前代未聞の出来事といってよいのではないでしょうか。

僕が学生時代、ジャーナリストを志して新聞社に入ったのは、文章を書く(発表する)ことが好きだったこと、そして、その「立場」を得るためには「手段」を手にしなくてはならなかったこと、この2つが理由でした。「手段を手にする」とはもちろん、当時の情報流通における「発信側」に身を置くことです。いま僕が大学生だったとしたら、考えは、かなり変わっていたかもしれません。

さて、僕が興味津津なのは、こうした「日本語の使い方」の大変化、それを当り前として育ってきた世代が、今後、徐々に社会の中心を占めるにつれ、人の生き方やコミュニケーション、さらには社会の仕組みに至るまで、どのような変化が表れるのだろうか? ということに尽きます。

たしかにブログは花盛りですが、その多くはまだ「匿名」での発信です。しかし、匿名であっても、一定の範囲の友だちなりは、誰が書いているか知っていて、書くほうも、それを前提としていることが多い。中途半端な状態と言えなくもありません。この微妙な「バランス」は、今後、変わらず推移するというわけにはいかないでしょう。どちらかに動き出すはずで、おそらく、より多くの人が名前と顔を晒して、情報発信する方向へ向かうでしょう。

そうなれば、実名というきわめて重い「責任」を伴った、しかも、個人の立場からの「本音」の言説が、世の中の隅々まで飛び回る、現在よりはるかに刺激的な(ある意味で危険でもある)コミュニケーション社会が実現することになります。

そのありようを予測することは、あまりに困難です。ただ、僕にもなんとなく理解できるのは、まず、価格比較サイトや消費者による「相互評価」サイトが引き起こした現象、つまり、消費者の行動パターンを定義する広告用語でいえば「AIDMA」(アイドマ:Attention→Interest→Desire→Memory→Action)から「AISAS」(アイサス:Attention→Interest→Search→Action→Share)への変化が、社会のあらゆる領域で拡大していくだろう、ということです。もちろん、後者はSearch(検索)、Share(共有)というプロセスが加わる点に大きな意味があります。

否応なく、経済合理主義に導かれる宿命がある経済(産業)社会は、比較的早く、このような変化(乱暴にまとめると『究極の消費者主導システム』?)が進んでいくでしょう。一方、最後まで「抵抗」するのは、「マスコミ」と「政治」ではないか、という気がします。なぜそうなのかは、改めて。

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独立して得たもの

今日(14日)は、2月としては異例の「暑さ」だったようですね。

これだけ陽気がいいと、家にじっとしていられなくなります。3月の「啓蟄」(けいちつ)は、春の訪れに地中でうごめく虫の意味だそうですが、今日の自分を見ると、つくづく、虫も人間も同じようなものだなあ、と感じます。

昨夜は、クライアントの関係者が外食関係の団体から表彰を受けたため、そのセレモニー・パーティーに参加してきました。その会場で、前職の同僚・上司の一団とバッタリ・・・。あちらのクライアントも、同じ賞を受けていたため、担当チーム全員で来ていたのです。

ふと、チームでわいわい仕事をしていたころを(まだ1年たってもいないのに!)、懐かしく思いました。

大切なものは、それを失ってはじめてわかる、と言いますが、独立してから、「チーム」のありがたみが、とことん身に染みました。毎日、仲間と顔を合わせて仕事をするからこそ、得られるものはたくさんあります。

ただ、記者時代から16年続いたサラリーマン生活をやめて、はじめて知ったこと、得たものも、また多いのです。

年末の記事に書いたように、新たな「人との出会い」がたくさんありました。

・・・などと想いめぐらせながら家に帰ると、そんな「出会い」で知り合った、バイタリティある若手PRマンのIさんから、「転職先が決まりました!」とのメールが。新卒で入った新興PR会社で3年、いろいろ考えるところがあったようです。メールには、「今度は自分のやりたいことができるような気がする」と、力強く書かれていました。

「おめでとう!」とメールを返して、ふと。。。。

これが「会社の同僚」のケースだと、たとえ自分にそんな気持ちはなくとも、組織を去る者・残る者という「区別」がどうしても生じ、自分と相手がそのどちらかに「分かれ」ざるをえなくなる。心から「おめでとう!」「頑張って!」と思っていても、それなりの寂しさや喪失感を味わうことになります。(PR業界は人の出入りが激しいので、僕もかなりの人を『見送って』きました・・・)

でも、いまの僕は、もっと自由に、しがらみなく、だれかの人生の決断を祝福し、応援できるのでは?、と。だとすれば、僕が独立して得た、とても大きなメリットです。

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「自殺」が「パロディ」になるとき

12日の「読売新聞」夕刊に、興味深い記事が載っていました。

『昨年1年間に全国の警察が通報を受けたインターネット上での自殺予告は180件196人で、一昨年を59件75人上回り、統計を始めた2006年以降、最も多かったことが警察庁のまとめでわかった。』

警察庁の統計モノです。しかし、よく読んでいくと・・・・。

『このうち95人については警察が本人を特定し、思いとどまらせるなどしたが、7人は警察官が到着した時には手遅れで死亡していた。身元特定までの時間をいかに短縮するかが課題となっている。』

つまり、自殺したい人が自殺するのを未然に防ぐことが警察の重要な任務であり、その「成果」を上げることがいま、警察にとって喫緊の課題になっている、ということですね。なんだか、納得できるような、できないような・・・。

『自殺予告の中で最も多かったのが掲示板への書き込みで112件121人。次いで警察などへのメールによるものが60件67人、画面上で会話するチャットが8件8人だった。このうち自殺の日時や場所が具体的に書き込まれるなど切迫性があるとして、プロバイダーに情報提供を要請して身元を特定したのは176人。この中の74人はいたずらなど自殺に至らないケースだったが、92人は警察官がかけつけて思いとどまらせた。集団自殺の待ち合わせ場所に現れた人を、警察官が説得して自殺を防いだこともあった。』

「警察などへのメール」を打つ人(自殺<予定>者)が、これだけいるというのです。なぜ??

ふと、僕自身が警察官になった姿を想像しました。署からの指令で派出所から自転車を飛ばし、泥まみれになって山の奥深くまで来てみたら、3人のおじさんが、今まさに首をくくろうとしている。僕はその前に立ちはだかり、両手を広げて、「やめるんだ!」と叫ぶ。すると、おじさんの一人が、こう言う。「私たちは自分の意志で死ぬんだから、放っておいてください」。「家族のことを考えてください!」と僕。すると、「家族はもういませんから!!」(3人)。「・・・・・・・・・・!。なんで自分の命を粗末にするんだ! 生きていれば立ち直ることもできるじゃないか!」と勝負に出ると、「よくよく考えた結果です。自分の人生だから、幕引きも自分でやりたいんです」(3人、深くうなずく)。

もし、こうなったら、おそらく僕はそれ以上、かれらを制止できないような気がします。

天寿をまっとうする、などと言いますが、そんな人はごく稀で、ほとんどは「まだ死にたくない」と思いつつ、仕方なく運命を受け入れるのでしょう。ならば、自ら時と場所と方法を選んで死にゆく人は、まだ幸せだと言えないこともありません。

なにを言うか!と、たとえば大切な人を自殺で失った方から、怒りを買うかもしれません。ただ、高名な文学者や俳優、芸術家などが自ら命を絶つと、どこか美化して(それはそれで『意味』があるかのように)語られる風潮があるのに、単なる「一般人」が当事者だと、十把一絡げで「自殺を防げ!命を救え!」の大合唱に変わるのは、とても不公平な、ある意味、人を馬鹿にしたことだと感じます。

誤解を招かないように書くと、僕は自殺推進派でも肯定派でもありません。けれども、人には「そういう部分」もあるのだろう、と素直に思うのです。そして、その「部分」とは、最終的には、他人と隔絶した、自分ひとりだけの世界であるべきだ(=それを持つべきだ)とも。

それを理解したうえで、「限界」を知ったうえで、それでも粘り強く、自殺志望者からの電話に応え続けているボランティアの方々が(僕の身近にも)います。その努力に、僕は心から敬服します。

その一方で、ごくたまにですが、富士の樹海にロケを張って、死に場所を探しにくる人のあとをつけ、しまいには「なぜ死ぬんですか~!」などと追い駆け回す、思わず目を覆いたくなるような、醜悪なテレビ番組に出会ったこともあります。

「今年の自殺者は前年比●●人増で・・・」などと、したり顔でニュースを読むアナウンサーを目にすると、嫌悪感を通り過ぎ、パロディを見ているような感覚に陥ります。自殺者数の推移が、まるで経済統計のひとつのように扱われ出したのは、いつごろからでしょうか。多いから(世相が)暗い、少ないから明るくなった――?

行政とは、パロディにもっとも近い組織です。すべての(生きている)人を平等に扱い、その生命と財産を守る使命があるのですから、警察官が自殺(予定)現場に駆けつけ、必死に「説得」するのも、これは当然かもしれません。その感覚のままに(素直に)書かれた記事が、これまたパロディ化していくのも、仕方ないことです。

それにつられて、慣れてしまって、僕たち一人ひとりが、人間にとっていちばん大切な「部分」までパロディにしてしまい、それを何とも思わなくなったら、最悪の社会ができあがることでしょう。死にゆく人にとっても、生きようとする人にとっても。

これもまた、メディア・リテラシーの問題です。

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これから読む本の「書評」

コミュニケーション・ニーズのあるところには必ず、●●の活動領域がある。世界的な視野でこの領域を発見・開拓し、創造的で卓越したコミュニケーション・サービスを提供する、それが私たちの仕事である。

・・・・●●に入るのは「電通」です。数年前から、電通が自らの企業理念としてうたっている言葉だそうです。さきほど読み始めた「コミュニケーションをデザインするための本」(電通選書、岸勇希 著)の「はじめに」で、知りました。

これも、かなり話題になった本ですから、すでにお読みになった方も多いことでしょう。

著者の岸さんは、「明日の広告」を書いた佐藤尚之さんと同様、電通の社員で、肩書は「コミュニケーション・デザイナー」。その仕事について、岸さんはこう書いています。

プロモーションやブランディングなどの広告キャンペーンから商品開発、事業企画に至るまで、企業(クライアント)と生活者の間に存在する、ありとあらゆるコミュニケーションを設計していく仕事  ―――「はじめに」より抜粋

なんだか、PRパーソンが、「PR会社って何する会社?」と友人から尋ねられ、「うーん。。。。ひとことで言うなら・・・」と説明する、定番フレーズのような気がします。冒頭の、電通の企業理念も然り。昨日から、くどいようですが、広告とPR、その境界がますますぼやけてきますね。

この本、これからじっくり読むところですが、ぱらぱらとページをめくるだけで、「面白そう!」な予感がしています。ビジュアルが効果的なのです。たくさんの画像(しかも質とセンスがいい)が全編にちりばめられていて、さらに、「はじめに」を読むだけで、文章の質もきわめて高いことがうかがえます。その2つの要素が相まって、なんというか・・・、“立体的な本”というイメージです。

内容もさることながら、文字と画像の組み合わせの妙がまた、楽しみです。

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「明日の広告」

本田哲也さんの「戦略PR」で絶賛されていた「明日の広告――変化した消費者とコミュニケーションする方法」(佐藤尚之著、アスキー新書)を読んでみました。昨年1月の刊行で、広告・マーケティング業界では、かなり話題になった本です。このブログの読者でも、すでに読んだ方が多いかもしれません。

著者の佐藤さんは、電通のクリエイティブ・ディレクター。

かなり乱暴ですが、本の内容を箇条書きでまとめると、こうなります。

①現代の消費者は従来型の広告を信じない。メディア接触パターンも変わった。

②だから、従来の「4マス至上主義」「『だれに伝えたいか』という発信側本位の考え方」では、いくら広告を出してもモノは売れない。

③打開策は、とことん消費者本位で考えること。だれが/どんな情報を/どのように/伝えてもらいたがっているのか?・・・という視点で、クリエイティブもメディア戦略も、完全ニュートラルな立場から設計し直すこと。

④CMとか新聞広告とか、メディアから先に考える広告戦略はもはや無価値。消費者の行動から最適なコンタクトポイント(=メディア)を探り、組み合わせるコミュニケーション・デザインが必要。

⑤そのためには、現在の広告会社(業界)の縦割り組織(チーム)は向かない。メディアもクリエイティブも含め全体を横断的にデザインする「コミュニケーション・デザイナー」が仕切るチーム構成が求められる。

⑥広告の未来は暗くない。チャレンジングな時代だといえる。

まず読後感からいうと、とても面白い本でした。文章が生き生きとしているし、論旨が明快。事例もくどくなく、楽しんで読めます。何より、全体を貫く「明るさ」がすばらしいと思います。

そのうえで、僕が感銘を受けたのは、次の2点です。

①これだけの「チャレンジ」を続けてきた広告マンが、今も巨大組織・電通の中で仕事をしているという事実。――先駆的な試みを真剣にめざす広告マンは、僕も何人か知り合いにいますが、たいていが、硬直した巨大組織を飛び出し、独立するなりして新天地に移っています。組織の中で、これだけの革新的な(とりわけ大手広告代理店において!)仕事を続けてきた(いる)佐藤さんは、強力かつ前向きで粘り強いエネルギーと、組織の中のリソース(仲間)をうまく使いこなす才能に、よほど長けた方だと思います。

②広告とPR、その境目が、これからの時代、ますます曖昧になっていくだろう。というより、境目などすでになく、「コミュニケーション」という共通項で完全に融合し、あとは、その「目的」別のアプローチにすぎなくなるのではないか。――PR関係者なら、一読すれば、同じ感想を抱くのではないでしょうか。

PRと広告。とりわけPR関係者は、自らの領域を「広告とは違う」と、どちらかというと「これからはPRの時代だ」といったニュアンスで語ることが多いものです。これは自戒をこめて。

しかし、そんな考え方自体が、すでに「古い」ことに、強烈に気づかされた一冊でした。

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点描: 大阪の串カツ

2009020618480000大阪で、すっかりなじみになった料理が「串カツ」。去年の春、通天閣のふもと「新世界」で初めて味わってから、時間があるとき、ちょくちょく食べてます。

東京でも「串揚げ」がはやっている(?)ようですが、どう違うのかは、こちらのうんちくに詳しく説明されています。なるほど!

大阪の串カツは、安いし、種類が豊富だし、カウンターに座る(立つ店も多い)と、たいてい隣に野球帽をかぶったおっちゃん(『おじさん』とはちょっと違う)がいるし、何より、あの銀の大きな四角い容器になみなみと注がれたソースが好きです。

関東だと、ウスター風というのか、どろどろしたソースが小皿で出てきたりするものですが、大阪は、みんなで使う「銭湯」スタイル。店の壁にはべたべたと、「ソースの二度漬け禁止!」の張り紙だらけ。二度漬けしたら、いったいどんな目にあうんだろう?、とびくびくしながら、ぼっちゃりとソースに串を沈め、未練たらしくぐるぐる回しても、さらさらのソースだから、余分な露はすーっと落ちる仕組み。さすが上方、味が辛くなりすぎないよう、うまくできています。

・・・と、新大阪駅構内の串カツ屋さん(写真)でひとりゆらゆら思索をめぐらせているうち、予約した新幹線にうっかり乗りそこないました。2本遅れの車内、缶ビール片手に、こちらも大阪名物「551(蓬莱)」の豚まんやらシューマイをぱくぱくつつくビジネスマンの多いこと!(僕も好きです)

大阪は、「ちょっとした」食べものが実に 美味い。これ、本当です。

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「世代別選挙制度」

この国を作り変えよう 日本を再生させる10の提言」(冨山和彦・松本大 著、講談社BIZ)を読み終わりました。最近読んだ、いわゆる提言タイプの書籍では、間違いなく出色の内容でした。

巻末に「日本を若返らせる10の提言」が列挙してあります。そのまま抜き出すと、

1 20代の政治家・官僚・民間人による「未来の内閣」設置

2 世代別選挙制度の実現

3 現在の公的年金制度を解散、保険料は全額返還

4 地方中核都市への人口一極集中化を誘導

5 参議院を憲法審議機関とする

6 正規社員と非正規社員の区別撤廃

7 外資系製造業を積極的に誘致し、日本国内にマザー工場設置を促す

8 上場企業には会社法で認められた範囲以上に厳格なルールを適用

9 経済犯の罰金を不正利益の10倍ルールに

10 戸籍制度の全廃と婚外子の権利制限撤廃

・・・となります。

どれも「なるほど」と思わせる根拠が、この本には書かれています。もちろん、実現には是非もあるでしょうし、本当にやるなら、大騒ぎになるようなことばかりですが。。

この本を読んで、僕がもっとも刺激を受けたのは、提言の2番にある、「世代別選挙制度の実現」です。つまり、現在の地域割りによる選挙区ではなく、20代代表、30代代表という具合に、世代の代表をしかるべき割合で国会に送り込むべきだ、というのです。

こんな発想、恥ずかしながら、これまで頭に浮かんだことすらありませんでした。しかし、言われてみると、なぜ選挙区とは「地域」主義なのでしょうか? なぜ政治家は「地域」代表なのでしょうか?

もし「世代別選挙制度」が実現したら、ものすごく緊迫した論戦が毎日、国会で繰り広げられることでしょう。年金制度にしても国の借金にしても、「これから影響を受ける度合」は、若い世代ほど大きいわけです(余命の長さに比例します)。

たとえば、高齢者の医療費を何割負担にするか。負担率が軽ければ現在の高齢者は喜びますが、そのコストを税金で支払うのは現役世代と、これから社会に出る若者たちです。「30年後の日本」について自らの問題として真剣に考えるのは、そのとき(おそらく)この世にいないお年寄りではなく、30年後も生きている人たちでしょう。いま生まれてくる赤ちゃんひとりが、1000万円もの「国の借金」を背負わされて世に出てくる、というのも、とてつもなく不公平な話です。

考えてみれば、「中央と地方、大都市と過疎地、こういった地域間格差こそが、日本の最大の不公平・不平等である」「だからといって中央からの再分配で地方を延命させるのは時代遅れ。地方は自立すべきだ」・・・という図式の“論戦”に、僕自身、学生時代から、すっかり「洗脳」されてきた気がします。

「世代間対立」は、社会の安定にとって、きわめて重大な危険をはらんでいます。だから、これまでの日本では、政治家も官僚もマスコミも、あえてクローズアップすることがなかったのでしょう。しかし、これからは否応なく、それが露になってくる時代ではないかと考えます。

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「ブログ炎上事件」報道に思う

新聞記事を読んで、「ああ、ズレてるな~」と思うことがよくあります。最近では、2月5日の読売新聞朝刊、お笑いタレントのブログの「炎上」で、誹謗中傷を書き込んだ人を警視庁が名誉毀損容疑で初摘発する、という特ダネ記事です。

一面トップの「本記」はいいとして、違和感を抱いたのは社会目の「サイド」記事。(ちなみに、大きな事件・事故や特ダネ記事を書く場合、一面に「本記」(ストレートニュース)を書き、社会面に「受け」と呼ばれる関連記事を書き分けるのが、新聞の習慣となっています)

その、社会面に掲載された、担当記者の署名入り記事を読んでみてください。画面の下のほう、「ネットの悪弊、歯止め必要」と題したものです。また、お手元に新聞があるなら、この日の社会面の(見出しも含めて)「雰囲気」を読み取ってみてください。

記者は「書き込みする人は今後、炎上に安易な気持ちで加わるだけで捜査対象になることを肝に銘じるべきだ」との“警告”で、この特ダネ記事を総括しています。おそらく警視庁担当の事件記者の方なのでしょう。警視庁の立場、違法行為を取り締まる側の視点からいえば、しごくもっともな結論ではあります。また、こうした「事件」で刑事責任の追及が初めて行われる、というニュースは、(このあとで他紙が追いかけたように)スクープにあたるともいえます。

しかし、これを読むと、どうしても違和感というか、「ズレ」を感じてしまうのはなぜでしょうか?

確かに、根拠のない誹謗中傷を書き込み、人を自殺に追いやるような行為は言語道断です。しかも、「匿名」に隠れて行うのだから、卑劣でもあります。ひどいケースで、名誉毀損が適用され、刑事罰が科せられることに、おそらく国民も賛同する人が多いことと思います。

しかし、だからといって、「いい加減にしないと逮捕するぞ!」というような、(失礼ながら)まるで「岡っ引き」みたいに締めくくるのは、「部数1000万部」の大新聞の記事として、「本当に『それだけ』でいいのですか?」と、素朴な疑問(違和感)がわいてきます。

いま日本では、約1700万件のブログが運営されていると、ある本で知りました。驚くべき普及率です。2チャンネルに代表される「掲示板」も盛んで、こうしたネット環境は、現代社会にとって、すでに不可欠かつ(もしかしたら新聞・テレビなどの)既存メディアよりパワフルな存在になっていると言えるかもしれません。

その中で、「モラル」の問題に、多くの人が悩みながら過ごしています。「匿名」による「参加」の是非。自分の意見・主義主張を行うことと、「誹謗中傷」の境目。「検閲」の功罪。さまざまな論点があり、いずれもたやすく答えが出ない難題ばかりです。

ブログに限って考えれば、「炎上」を避けるには、コメントやトラックバックなど、「双方向性」ツールを閉鎖すれば、解決します。事実、著名人のブログには、そうしたケースが多いですね。しかし、双方向性が楽しみで、重要だと考え、あえてオープンにしている人もまた多いし、(たとえ匿名でも)きちんとモラルを維持しながらコメントを書き込むことを楽しみにしている人もたくさんいます。(僕の、このブログもコメントをオープンにしていますが、嫌な思いをしたことは一度もありません)

それでも誹謗中傷に悩まされるブロガーもいます。また、掲示板では、それこそ勝手に、あることないこと書き込まれ、削除要請しても「イタチごっこ」が日常茶飯事です。

さて、ここからが本題です。

だれがどうやってネットを「規制」するのか? そもそもネットを「規制」することは正しいのか? ――という、l根本的な問題があります。

インターネットにおける「言論」とは、僕は、人類がついに開けてしまった「パンドラの箱」のようなものだと考えています。20世紀の終わりまで、不特定多数に自分の存在や思考を披露するには、ほかの誰かが所有し、管理している「媒体」を使うしか手段がなかった。それは、たいてい排他的で、かつ、利用するには高いコストがかかる。だから、社会全体をみれば、ごく少数の(限られた)発信者と、その他大多数の受信者で、コミュニケーションがなされる――。(壁新聞などの例外はありますが、規模の小ささから問題にしません)

ところが、インターネットによって、たとえば小学生でさえ、携帯電話から全世界に向けて情報発信ができるようになりました。さらに重要な点は、発信の「気楽さ」「気軽さ」と、双方向性が備わっていることにあります。「匿名」の「功」の部分は、まさにここにあります。

いったん、この体験をしてしまった人類は、もう、「過去」には戻れないだろうと(直感として)思うのです。社会という概念が形成されてから数千年、上流から下流への一方通行、きわめて不平等で、既得権益をもつ層が支配していた社会全体レベルのコミュニケーションが開放された、まさに情報革命と呼ぶべき出来事ですから・・・。

世界の大国をみると、たとえば中国は、今でもインターネットの「国家管理(規制)」に執着しているようです。早晩、白旗をあげることになるでしょうが・・・。しかし、こうした国は例外でしょう。

ネット社会の拡大は、「国家が情報を管理する」という従来の手法では、もはや抑えきれないことは、ほとんどの人が理解しています。また、サーバーの管理者や掲示板の主宰者といった「局地的な責任」でも、対応できないことが、現実としてわかっています。だから、10年以上前から、ネット規制をめぐるさまざまな議論が国会その他で展開されているのに、なかなか結論(対策)が決まらない。

これは私見ですが、ネット社会のルールづくりでいちばん重要なのは、いまブログを書いている僕自身を含め、ここに参加しているすべての人たちが、知恵と努力を結集して、自らの「行い」として積み上げていくべきプロセスにあると考えます。事実、ネット社会に参加している大半の良識ある人たちは、日々、自分の書いた文章に反省したり、人の書いたものを批評したり、試行錯誤を繰り返しながら、ネット社会の「あるべき」姿を模索しているのではないでしょうか。

長くなりました。冒頭の新聞記事に戻ります。

僕が感じた違和感は、こうです。

確かに警察が誹謗中傷を摘発することに妥当性はある。それが必要な局面もあるだろう。しかし、それはネット社会の今後を展望するうえで、多くの問題を解決する有力な「手段」には、なりえないのではないか? むしろ、これを契機に、もっと広範な、深い「議論」を巻き起こしてほしい。そのための有効な「提言」をしてほしい。それが、世論をリードすべきマスコミの使命ではないのか?

「行き過ぎた誹謗中傷VS警視庁」→摘発。

この構図に終始しては、問題が矮小化されてしまいます。ネット社会の大半の人には、事実、直接の「関係」(当事者性)がないからです。

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「汽水」の世代?

最近、「世代」を意識するようになった、という話を先日、ブログに書きました。今日の話も、その関連です。

いま読んでいる「この国を作り変えよう 日本を再生させる10の提言」(冨山和彦・松本大 著、講談社BIZ)で、松本大さんが興味深い指摘をしていました。

文中の小見出しをそのまま書くと、「成功体験のない世代が日本を救う」。高度成長もバブル経済も(実体験として)知らない、いまの若い世代は、「むかしうまくいった」式の固定観念がないから、これからの改革の原動力として期待できる、というのです。さらに本文の受け売りをすると、松本さん(マネックスグループCEO)が若い社員に対し、日本のGDPが下がっていることの感想を尋ねたら、「僕は、生まれてから、日本がすごい国だなんて一度も思ったことがありません。今がダメというか、いつもダメダメの国でした」と言われ、そのとき、松本さんは「わくわくするような希望を感じた」そうです。

僕は高度経済成長は直接、体験したわけではありません。バブル経済は、その「最後の輝き」とでも呼ぶべき時期に大学生として過していましたから、少なくとも現象面は、よく知っています。僕が大学を出て、新聞社へ就職した直後に、新規採用が半分くらいに減らされました。

昨年まで勤めていたPR会社で、新卒の社員に「バブル」の話をすると、きまって「いいですね~。私たちのこれまでの人生には無縁の世界です!」といった反応が返ってきます。そのとき、なんとなくですが、優越感に似た感覚を抱いてしまうことが、よくありました。不思議なものです。自分がバブル経済、急成長の「立役者」でもなく、ひと財産築いたわけでもないのに、「おれは、あの、日本が世界の真ん中を大手を振って歩いていた時代を知っているぞ!」とでもいうような、まったくもってアホな感慨が湧いてくるのはなぜでしょうか。

松本さんが重視(問題視)しているのは、こうした「成功体験」です。大学生で遊び呆けていただけの人間まで、根拠のない「自信」「自負」を無意識に抱いてしまう。すると、その時代の「やり方」から、頭が抜けきらなくなり、それに気づくこともない、という状態が、社会を変革するネックになっている、と。。。 まったくその通りだと思います。

戦後の荒廃から繁栄の時代を作り上げた、まさに高度経済成長を担った年代の人たちに至っては、さらに強い「誇り」と「確信」を胸に秘めていることでしょう。そんな世代から、バブル後の「ダメダメ」時代を生きてきた20代前半まで、ひとつの会社で同居していたりする、考えてみればすごいことですね。

ここでまた「アラフォー」登場ですが(笑)、僕たちの世代は、ちょうど社会に出るあたりでバブルが終焉した、境目の世代にあたります。どちらも知っているのは得なのか損なのか、よくわかりません。

ただ、面白い、思うのは、海水と淡水が混ざり合う「汽水域」ではないけれど、両極端な二つの価値観が、同じ年代に同居していることを最近、強く感じます。いちばん分かりやすいのは、同窓会などで同年齢が集まると、とくに男性で、「年功序列・終身雇用の大企業で定年まで勤め上げるぞ!」タイプと、「もう会社なんかあてにするものか。転職・独立当たり前!」タイプと、(たまに、会社がつぶれて求職中!も)、実際の境遇はもとより、価値観レベルでも正反対の人たちが顔を合わせるときです。

「価値観レベルで正反対」というのが、この年代のミソ。おそらく、社会に出た直後くらいの、大人としてはナイーブな時期に、大きな世の中の変化を体験したため、そのときの境遇によって、考え方もかなり差が出るのではないかと推測しますが、高齢層とも、(おそらく価値観としては後者が大半と思われる)若年層とも異なるところではないでしょうか。

コミュニケーションギャップが生じるとき、その言い訳としてもっとも有効なのは、「世代の違い=価値観の違い」です。たとえば政治をみれば、投票率低下に象徴される「若者の政治離れ」は近年、ますます激しくなっています。その背景には、松本さんが指摘した「成功体験の有無」に端を発する、従来のレベルとはケタ違いに大きな価値観の相違があるのではないか、と感じています。まさに、価値観レベルでの「断絶」です。コミュニケーションがうまくいかないのは、当たり前かもしれません。

ただ、これは「世代間」でのこと。むかしから繰り返されてきた図式です。

では、あくまで仮説ですが、同じ世代内で異なる価値観を抱えている僕たちの世代は、世代「内」でのコミュニケーションの危機を迎える、ことになるのでしょうか?? もしそうだとすると、少なくとも戦後の日本で、あまり前例のない社会現象ではないか?と思います。

この問題、あらためて、コミュニケーションの観点から掘り下げたいと思います。

最後に・・・↑この本、素晴らしいです!!お勧めです。

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「戦略PR」を読む

戦略PR――空気をつくる。世論で売る。」(本田哲也著、アスキー新書)を読みました。僕は、著者の本田さんと面識はないのですが、お名前は方々でうかがいます。セガの海外営業からPRの世界に入り、外資系大手フライシュマンのヴァイスプレジデントとして活躍された(まだ30代ということですが)、PRの世界ではかなり有名な方です。

副題の「空気」という言葉にひかれ、読んでみました。PRに関係する書物は近年、相次いで刊行されていますが、これは良書だと思います。「事例」のオンパレードにはならず、ごく限られた「事例」を詳細に解説することを通じて、著者が伝えたい「概念」を、かなりリアルに表現できていると思うからです。

この本に書かれている「空気」とか「空気のつくり方」について、「たまたま成功したケースを書いただけではないか」「一般化するには検証が足りないのでは」・・・などと懐疑的な見方をする読者も少なからずいることでしょう。

しかし、このような、まさに「空気」に近い存在である、とりとめのない概念――しかも、それが「新しい」ものである場合――に、呼び名をつけて、意味を定義し、されに論理性と妥当性を付与して、活字のかたちで世に出すという作業は、とてつもなく骨の折れることです。

「PR本」と称される書物に共通する特徴は、そもそも「かたちがない」、PRというものを、活字で説明しようとすることの難しさです。「成功事例」の羅列に走ったり、その逆に、高所からの「べき」論に終始したり、なかなかうまくバランスを保てない作品が多いのは、そのためだろうと考えます。

その点、この本は、著者の意図が明確です。さらに、大胆かつストレートに、著者が訴えたい「概念」を展開しているので、読んでいて迷いが生じません。米国PR大手の日本法人で、日本よりはるかに進んでいるといわれるPR手法に直接触れてきた著者だから、ここまで整理して、思い切って書けるのでしょう。

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相撲マスコミはなぜ「書かない」のか

優勝した朝青竜が土俵上でガッツポーズをした「問題」で、例によって相撲協会が「物言い」をつけ、朝青龍側が謝罪するという顛末になりました。

久しぶりの大横綱の快挙に、僕もテレビの前で喝采をさけんだだけに、なんとも残念なことです。

優勝してガッツポーズをする。果たして、そんなに「悪い」ことなのでしょうか?

相撲人気が世界に広がり、オリンピックの種目に採用されたとしましょう。他の競技では、(格闘技を含め)頂点に立った選手が飛び回ったり、肩車されたり、バク転したりと、思い思いのやり方で喜びを爆発させる中、相撲だけは「にこり」ともしなかったら、いくらそれが「伝統」だの「文化」だのと言われても、とても奇異に映ることでしょう。

勝って喜ぶ、負けて泣く。スポーツにおいて、これらはごく当たり前の感情表現です。フェアプレーが大事なのは言うまでもなく、卑怯な行為やルール違反、暴力的な振る舞いが厳しく指弾されるのは当然です。しかし、当り前の感情表現を奪われたスポーツの舞台は、どう見ても「無理」があります。本音と建前の使い分けとでもいうべきか、「心を隠す」ことを強いられる。これはスポーツのあるべき姿と正反対です。

相撲界で頻発している、大麻所持だの部屋でのリンチ事件だのを見ていると、どこか抑圧ゆえの暗いエネルギーを感じてしまうのは穿ち過ぎでしょうか。

そういえば、ひところメディアを騒がせた「八百長」問題はどこへいったのでしょうか。週刊現代など週刊誌が唯一、追いかけてきたテーマで、たしか「週刊現代」には、ほぼ間違いなく「クロ」であると推測できる、相撲協会幹部(理事長?)が内部の会合で話したテープの起こしが掲載されました。

ちなみに、門外漢である僕でさえ、ある相撲関係者から「八百長」が存在する事実は直接、耳にしています。「千秋楽で、もう1勝すれば勝ち越す力士と、すでに負け越しが決まっている力士が戦うとする。その1勝は、前者には非常に重要だが、後者にはさほど重要ではない。そういうとき、取引になる」と。なるほど、ありそうな話です。

醜悪だったのは、この「八百長」問題をめぐるマスメディアの報道ぶりでした。NHKは完全無視。民放はワイドショーなどで取り上げたものの、コメントは実に歯切れが悪く、「八百長」があったのか、なかったのかという部分は常にオブラートで包んでいました。全国紙も、ほぼ無視に近い報道ぶりです。

大手報道機関には、相撲担当の(多くはベテラン)記者がいて、相撲協会と密接な関係を維持しています。真相をもっともよく知るのは、おそらく彼らです。しかし、彼らは「何も書かなかった」のです。

「八百長」があったのか、なかったのか。それ自体がいちばん重要だとは思いません。おそらく、「ある程度はあった」「しかし、大半は真剣勝負である」・・・が真相だと(強い根拠はありませんが)思います。ある意味「どうでもいい」勝負で「取引」がなされ、今回の千秋楽の朝青龍VS白鵬のような迫真の取り組みは、間違いなく真剣勝負であったと思います(むしろ、そう思いたい)。真相が明らかになれば、相当の波紋を呼ぶでしょうが、相撲ファンの夢を100%ぶち壊すような事態ではないと考えています。

それよりも、この「相撲マスコミ」の異常な反応(無反応)にこそ、危機的なものを感じます。なぜ「書かない」のでしょうか。「八百長」がないなら、ない。あるなら、あると。結論が出ないなら、わかっているところまで。それが報道機関の、記者の仕事ではないのでしょうか。

「そんなこと関係者なら誰でも知っている(たいしたニュースではない)」? 「相撲協会に睨まれて出入り禁止になったら報道できなくなる(国民に伝える使命を果たせなくなる)」? 「国技である相撲を危機に陥らせることは担当記者としてすべきでない」?

これがプロ野球やJリーグだったらどうなっているでしょう。マスコミは同じ対応をとるでしょうか。そんなことが許されるはずがありません。

では、なぜ、相撲では許されるのか? ここが問題です。

都合の悪いことを必死に隠そうとする「相撲協会」の胡散臭さ、誰がどういう資質で選ばれたのかさっぱりわからない人たち(なぜかマスコミのトップが目立つ)が独断で横綱昇進を決める「横綱審議会」という不思議な組織。こうした、インナーサークルによって、閉鎖的に運営されているのが相撲の世界であるという認識は、昨今のさまざまな出来事を通じて、国民に広がったようです。

今回、本来はそれらインナーサークルと国民の間をつなぎ、国民の視点で、相撲界が良くなるように努める使命を担うべき報道機関もまた、「お仲間」の一員であったことが、かなり鮮明になりました。

マスコミへの不信は、なかなか「世論」として表れてきません。「世論」を伝えるのがマスコミだからです。しかし、一度失った信頼は、じわじわと、確実に広がり、どこかで取り返しのつかない事態を招きます。

多くの人々が素朴に感じる「なぜ?」に真摯に応えることを忘れたとき、報道機関は「権力」機構の一部になり下がります。いまの相撲マスコミは、相撲「権力」の一部であるかのような印象を持たせます。ただ、政治的な「権力」は人々を服従させるパワーによって延命することも可能ですが、相撲はスポーツに過ぎません。みんなに飽きられたら、没落するしかないのです。

「八百長」がテーマとしてしんどいのなら、せめて「ガッツポーズ」くらい、是非の両論併記で「なぜ問題なのか?」を深く掘り下げる、特集記事の一本も読みたいものです。

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むしろ雑誌は大丈夫か?

「週刊東洋経済」1月31日号で、「テレビ・新聞 陥落 ――頼みのネットも稼げない」と題する特集をやっています。さすがに興味がわいて、久しぶりに週刊誌を購入しました。

読んでみると、要するに「既存メディア離れと不景気で、どこも苦しい」「とくに●●と●●は相当ヤバい」「ネットが頼みの綱だが、儲けるにはほど遠い状態」「そんなこんなで、お先真っ暗」・・・という論旨のようです。

ちょっとがっかりでした。だいたい、想像のつくような内容ばかりだったものですから。もう少し、突っ込んだ取材や、業界の行く末を洞察するような深い記事を期待していたのですが。。。

だいたい、「●●沈没」とか「●●陥落」、「●●没落」など、ワンパターンのタイトルと、「あれもダメ」「これもダメ」のトーンは、いい加減にやめたら?と思うのです。これだけ景気が悪いのだから、どこも沈没なり陥落しかかっているわけで、読む前から暗い気分になります。どんな不景気でも、いずれは終わりが訪れ、その時点で必ず「勝者」が残るはずです。落ちぶれた者をことさら叩くだけでなく、誰も考え付かないくらい奇抜な仮説で将来の「勝者」を大胆に予測するような特集こそ、読者を惹きつけるのではないでしょうか。

こういう記事を読むと、むしろ、「雑誌・週刊誌はどうなの?」と、意地悪な突っ込みを入れたくなります。

テレビならリアルタイムという特性があり、新聞には毎日朝一番にたくさんの情報を家庭の郵便受けまで届けてくれるという、これも他のメディアにはまねできない利点があります。なんだかんだ言われても、これらのメディアが生き残っているのは、それなりの理由があるからでしょう。

その点、雑誌というメディアは、ネットの追い上げをもろに受ける立場にあります。ファッション誌を中心に、廃刊・休刊が相次いでいるのは当然だと思います。

先日、再会した日経BPのある若手雑誌編集記者は、「うち(その媒体)なんて、早く『紙』をやめてネットだけで生きていくようにしないと、すぐにつぶれてしまう」と、危機感をあらわにしていました。しかし、幹部の「頭がかたく」て、上がまったく動きださないことに我慢がならないようすです。

いずれにせよ、雑誌媒体には厳しい時代です。

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アラフォーPRパーソン

先週の水曜は、同世代のPR関係者4人と会合。僕にとっては元同僚、元クライアント、現クライアントに新たな友人と、さまざまな関係の皆さんですが、年代はみな30代後半から40過ぎ。いわゆる「アラフォー」世代です。たまたまメンバーの個性なのか、元来PRパーソンには「口が達者」な人が多いせいかもしれませんが、まあ、この面々の「元気」なこと。。。会合が終わると、喋りすぎで口が疲れ、耳がじんじんしていました。

最近、卒業以来の高校のクラス会を開いたときにも感じたことですが、最近、「世代」を意識します。

これまで生きてきて、自分が属する「世代」について、とくに意識することはありませんでした。むしろ、あえて意識しないできた、と言うほうが正直かもしれません。年代という要素で、十把一絡げに語られることへの反発もありました。

それが変わってきたのは、おそらく、「世代」の持つ「パワー」を感じるようになったのが原因だと思います。

いま僕が身を置くPR業界を例にとれば、40前後の年代層には、さまざまな分野でキャリアを積み上げ、その蓄積を開花させようという段階にある人たちが、実に多いのです。PR会社の中堅として頑張っている人、独立して経営者となった人、企業広報の立場でPRを使って企業を変えようとしている人、さらに、コーチングや広告、IR、トレーニングといった、関連する分野から、コミュニケーションビジネスという共通項で、気づいてみれば同じ土俵で仕事をしている人たち・・・。

僕が大手PR会社を辞め、独立して得た最大の財産は、こうした人たち(その多くは同世代)との接点を、それ以前とは比較にならないほど、幅広く持てたことにあります。

不思議なものです。PR会社社員時代も、自分のウイングを広げようと努めてきたはずなのに、こうも劇的に変化するとは。きっと、自分自身にも、周囲にも、目に見えない「壁」があったのでしょう。

企業広報とPR会社との相関関係を中心に発展してきたPRの世界は、いま、良い意味で、先の読めない発展段階を迎えていると感じます。1970年前後に相次いで創設された大手(伝統的)PR会社は早晩、創業経営者の引退・交代時期に差し掛かるでしょう。それを契機に、「PRのプロ」の人材市場は、ますます拡散・拡大し、内から外へ、外から内への人材流動が、大規模に起こるのではないかと推測しています。

それがどのような流れであり、どこへ帰結するのか、まったく「先が読めない」わけですが、いずれにせよ、その時代の中心になるのは、現在の「アラフォー」PR関係者たちだろうと思います。

同世代を意識し、そのパワーを感じるようになったのは、「それが何なのか」はよくわからないけれど、「何か」をしたい、しなくては、と強く意識する仲間(ちょっと気取って言うと『同志』)の存在を、そこに見出したからです。

この先10年、あるいは20年。わくわくする世界にわが身を置けたことを、感謝しています。

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広島市からの正式な回答

「原爆資料館」の年末年始休業の件、「広島市 市民局 国際平和推進部 平和推進課長」の方からメールがきました。正式な返答ということです。以下、全文を転載します。

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拝啓 このたびは、Eメールをいただきありがとうございます。
 12月29日に広島平和記念資料館にお越しいただきましたのに、休館により観覧いただけなかったことを非常に残念に思います。休館日の広報が行き届かなかったことを深く反省し、お詫びいたします。そして、貴重なご意見をいただき、お礼を申し上げます。
 さて、「広島平和記念資料館は年末年始にも開館すべき」とのご意見について回答します。
 現在、広島平和記念資料館では、休館日を年末年始の12月29日から翌年1月1日までの4日間のみとしています。
 施設の維持管理や展示物の保全のためには、閉館して行うことが必要な作業があり、この期間を最大限に活用し、施設の一斉点検・修繕・清掃、展示物や収蔵資料の保全のための害虫駆除などを行っています。
 また、同資料館の月別の入館者数を見ても、12月、1月は入館者が最も少ない時期であり、さらに、公の施設は年末・年始に閉館するケースが多いことも勘案し、この期間を休館日とし、施設の維持管理に必要な作業を行っていますので、ご理解のほどお願い申し上げます。また、今後とも、年末年始の休館日についての広報に努めてまいります。
 最後になりましたが、中村様の今後益々のご健勝を心よりお祈りいたします。
敬具

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

うーん。。どうも怪しげな説明のロジックです。

「12月と1月は入館者が最も少ない時期であり…」とは、月次の入館者数の問題です。年末年始に限った議論ではありません。また、僕が指摘した、年末年始の休暇を利用して県外各地から訪れる遠来の利用者への配慮(単に受け入れるだけでなく、積極的に呼び寄せたら?)という論点については触れていません。

メールによれば、12月29日から1月1日までの4日間に「施設の一斉点検・修繕・清掃、展示物や収蔵資料の保全のための害虫駆除などを行って」いるそうです。その通りだとすれば、この年の瀬に専門業者を動員するだけでなく、職員も出勤して作業なり監督をしなくてはならないはずです。御苦労さま。。と言う前に、「だったら開館したら?」という素朴な疑問がよぎります。

むしろ、ポイントは、さりげなく挿入されている「公の施設は年末・年始に閉館するケースが多いことも勘案し…」という一文にこそ、見出すべきなのでしょう。僕はもともと「公だからこそ(公共性が高いからこそ)」「(普段訪れることができない人々が集まる)年末年始に(あえて、積極的に)開館したらどうだ」と指摘しているわけで、問答の構成としては「ケンカ売ります」に近いですね(笑)。キモとなる論点には正面から答えず、直接は関係のない様々な「材料」をそれらしく並べて、クレームを「いなす」…。

「わざわざ1月2日から開けているんだから、元旦までの4日間くらい、ゆっくり休ませろ!」という本音を、お役所風に翻訳すると、こうなるという見本です。

このメールは課長さんの実名で届いています。広島市の課長さんですから、それなりの地位にある、立派な方だと推測しますが、その割には、内容がお粗末すぎます。仮に僕が(職務上)、このメールを誰かに送らなくてはならない立場だとしたら、部署名だけにして、個人名は出しませんが。。。

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「国語教育」を考える一冊

いま読んでいる本は、「外国語で発想するための日本語レッスン」(三森ゆりか著、白水社)。スラスラ読むにはちょっときついので時間がかかっていますが、外国語というよりは日本語について深く考察された書物だといえます。日本語のみならず、日本人のコミュニケーション能力について、欧米をはじめとする外国との比較により、「このままではいけない!」と警鐘を鳴らしています。

著者はドイツでの生活が長く、そこで受けた「母国語(ドイツ語)教育」に感銘し、そのメソッドを日本で広めようと努力されている方です。読んでいくと、共感を受ける部分が実に多く、「そうだよな~」と、うなずくことしきり。

僕は、とりわけ中学・高校時代、「国語」の授業が大嫌いでした。何を、何のために勉強しているのか、いくら考えても、さっぱりわからなかったからです。

小説を題材に、ここで主人公はどう感じたか?などという問いが試験に出て、4つほどの選択肢から選ぶ・・・。どれが正解でも不正解でもいいではないか!(そんなのは読者の自由だ) 小説とはそんな読み方をするためにあるのか?という素朴な疑問から抜け出せず、教師に不満をぶつけたこともありました。

しかし、それ以上に「こうあるべきだ」という答えを持ち合わせていなかったので、結局のところ、ボイコットという行動しか取れなかったのです。

いま、この書物を読むと、日本における日本語教育の問題点が、「目から鱗」のようにわかります。積年のモヤモヤが晴れて、すっきりした気持ちになりました。

この本を、日本の「国語教師」の皆さんは、どう感じながら読むのだろうか。そう思いました。「国語教育」について、同じような思いを抱いた経験のある方には、きっと共感できる一冊だと思います。

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お役所仕事

Dscn0078_2 年末年始に感じたことをひとつ。

29日から家族で広島を旅行しました。はじめて原爆ドームの実物を目にしたときは、なんともいえない気持ちになりました。残念だったのは、原爆資料館が年末年始(当日は29日)で閉館していたことです。

すると、普段は資料館で説明を(ボランティアで?)しているという男性が現れ、ドーム前で即席の説明会を開いてくれたのです。紙芝居のように、写真や資料を掲げながら、わかりやすく、心にしみわたる説明でした。ご自身もお母さんのおなかの中で被爆したそうです。数十人の観光客が取り囲み、説明が終わると、静かな拍手が鳴りやみませんでした。

資料館の見学を期待していた僕たちは、この方の善意に救われました。

それにしても、いくら年末年始だから、公務員だからといって、日本中(世界各国からも)観光客が集まるこの時期に、広島が世界に向けて発信すべき、もっとも重要な情報を「遮断」してしまうとは、広島市はいったい何を考えているのでしょうか?

職員がどうしても休みたいのなら、アルバイトや民間委託で施設をオープンすることだってできるのではないかと思います。ボランティアで臨時の説明員を募っても、ぜひ力になりたいという人は、広島にはたくさんいることでしょう。

説明してくれた男性は「市役所にいくら言ってもダメ。ぜひホームページから市長にメールで抗議して」と呼びかけていました。さっそく今日、メールを送ってみました。

反応があるか、楽しみです。

<追伸>

メールを送ってから半日で、秋葉市長名の返事がきました。

「電子メールありがとうございました。貴重な御意見、早速読ませていただきました。
いただいた御意見は関係部局へ送り、協議検討のうえ、回答させていただきます。
取り急ぎ御礼まで。  広島市長 秋葉忠利」

とのこと。思いのほか、素早い対応です。自動返信かもしれませんが。。。。

「回答」に期待します。

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小泉純一郎の「呪縛」

麻生内閣の支持率がとうとう20%を割り込みました。12日付「朝日」朝刊に世論調査結果が載っています。同じく「読売」でも20%と大差なく、麻生政権はいよいよ正念場を迎えたようです。

さらに注目すべきは「不支持率」です。読売では72%、朝日でも67%に達しています。通常、読売に比べて朝日のほうが、自民党政権に対する数字は辛く出ることが多いのですが、今回は読売がより厳しく出ています。それだけ、これらの数字の信憑性は高い、とみるべきでしょう。

もう一点、気になるのは定額給付金に対する調査結果。「ほかの目的に使ったほうがよい」(読売)が78%、「(給付は)やめたほうがよい」(朝日)が63%。一人あたり1万2000円、世帯構成によっては家族あわせて6万円前後もの現金を「もらえる」というのに、国民の大多数はそれを「いらない」と言っているわけです。

「選挙目当てのばらまきは不愉快」とか、「ガソリン値上げの時期と状況は変わった。今は職や住居を失った人へのピンポイントの支援が有効」などなど、理屈はいくらでもあり、それには説得力もあります。とはいえ、国民全員への現金支給は、業種や税金納付の有無にかかわらず支給されることから、最も広範な国民層を潤し、景気回復に(とりわけマインド面で)効果があるとする経済学者もいます。

受け取る側の国民からも総スカンを喰うような、そんな政策だったのでしょうか。増税で支持を失うならともかく。。。

やはり、麻生首相の発言の「ぶれ」が大きかったのだろうと考えます。とくに、当初の段階で「高額所得者は給付を辞退すべき。矜持の問題だ」とやってしまったのがまずかったようです。

ご本人は、低所得者層への配慮を示すとともに、超セレブとの「批判」がつきまとう自身のイメージも変えようと、あえて強いトーンで「麻生節」を打ち出したのだと思います。ところが、これをきっかけに、「だったら高額所得者は給付対象から外したらよいではないか」との疑念が噴出し、与謝野大臣も「(自由意思よって辞退してもらうのは)制度とはいえない」とコメントせざるをえなくなりました。

次に、世間から見たら高額所得者である国会議員はどうするのか、という、やっかいな問題が浮上。細田幹事長が「国会議員も堂々ともらって使おう」、当の麻生首相は「まだ決めていない」、ある自民党幹部は「(制度が)決まっていないのでノーコメント」など、どうしてこんなにもめるのか!! という事態になっています。多くの国民が、しらけてしまうのも当然でしょう。

はじめから、「この政策は消費喚起、景気浮揚のために行うものである。だから、所得の多寡にかかわらず、むしろ裕福な人ほど、堂々と受け取り、どんどん消費して、地域経済に貢献してほしい。もちろん(首相である)私も受け取り、給付額以上に消費をするつもりだ。ほかの議員の皆さんもそうしてもらいたい」と、シンプルなメッセージを発信し、何があろうとそれを貫いていれば、マスコミの反応はまったく異なっていたでしょう。

何より、この制度を心待ちにしている小売・流通業界をはじめとする産業界が、もろ手をあげて歓迎したはずです。そうなれば、「総額1万2000円!給付金お得セット」だの、「夫婦で2万4000円!景気回復セレブディナー」だの、無尽蔵の「民間の知恵」が次々と飛び出し、ワイドショーなどのメディアは、その方向へと引きずられた可能性が大きいといえます。これが本来、政権が狙った世論のシナリオだったはずです。

つくづく、政治家のメッセージとは難しいものだと思います。

それにしても、安倍さん、福田さん、麻生さんと、あまりにも早く支持率が急落していく昨今の世論は、いったいどうなっているのでしょうか。気になるのは、これらのリーダーたちは、消費税アップなどの増税をしたわけではなく、大失言を吐いたのでもなく、スキャンダルにまみれたこともなく、歴史に残る失政を行ったわけでもない。国民的人気がきわめて低い人物でもなかった。なのに、国民から「見捨てられる」スパンが、異常に短くなっているように感じます。

僕はどうしても、これを「小泉さんの呪縛」と考えてしまいます。小泉首相によって、日本国民が総理大臣に対して抱くイメージ(期待値)が劇的に変化したのではないか、と。それがゆえに、実態が期待にそぐわないと感じたとき、支持率は急激に下がっていく。その期待値の中身が問題ですが、おそらくは「政策」よりも、「イメージ」なのだろうと推測します。

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「報道の大きさ」は予測できるか?

プレスリリースを出したり、記者会見を開いたりするとき、結果としてどのくらい報道されるのか、これを予測するのは実に難しいものです。

プロのPRコンサルタントなのだから、そのくらいわからないのか?と疑問に思われるかもしれません。僕は10年間、新聞記者をして、記事を書く側にいたのですから、なおのこと、クライアントからも、そういった「予測」を求められます。

しかし、決して断定的に結果を「予測」しないように心掛けています。なぜなら、どれだけ精密に「予測」を試みたところで、偶然の要素を完全に排除することはできない、つまるところ、「わからない」からです。

「このネタなら経済面の囲み記事くらいだろう」「これは1面トップもいけるかもしれない」。広報の現場では、つねに、こうしたことを考えながら、情報発信に取り組んでいます。このような「相場観」はとても大事です。しかし、あくまでも「目安」に過ぎないことを忘れると、思わぬ失敗をすることになります。

なぜ、「ネタ」から報道の大きさを予測することが困難なのか、説明しましょう。

僕が経済部の記者をしているころの話です。ちょっとした話題を30行(当時1行は12字)で経済面の囲み記事にして、午後9時ごろ締め切りの早版のゲラを確認し、「これで今日の仕事は終わった」と、記者クラブでビールを飲み、ソファでうたたねをしていると、デスクからの電話でたたき起こされました。午後10時半ごろです。

後版(最終締切は未明1時過ぎ)では、僕の書いた記事を1面トップにするので、内容を膨らませて、100行くらいで書き直してほしい、というのです。イラストもつけるので、手描きの図をファクスせよ、とも。あわてて作業にかかり、1時間で原稿を差し替え、イラストもつくりましたが、まさか1面トップになるとは思っていなかったので、原稿を「膨らませる」ことに苦労しました。時間的に追加取材はできないからです。

1面トップだと思って書いた記事がボツやベタになったり、その逆に思わぬ“厚遇”を受けたり、記者の日常には、こうした出来事が日常茶飯事です。

前線の記者は、紙面での扱いを決める権限を持っていません。紙面構成は、毎日、朝刊なら朝刊、夕刊なら夕刊ごとに、編集作業と並行して断続的に開かれる編集会議で決まり、さらに、時間経過とともに修正されていきます。

もうひとつ重要な要因(意外に気づかれない)は、紙面での記事の扱いは、「相対的」に決められるということ。記事のひとつひとつがどれだけの価値を持つか、よりも、新聞全体を商品としてまとめるために、どの記事をどこに配置すべきか、という視点で決められる、ということです。

たとえば、「1面トップでもおかしくはない」けれど「特ダネでもなく、それほど面白くもない」経済記事が1本あるとします。それをアタマに据えて、さほど特徴のない紙面をつくるのか、それとも、この際、思い切って、雪山の風景とか、きれいな写真モノをデカデカと1面トップに持ってきて、その経済記事は経済面に収容してしまおうか。。。

こうした判断によって、紙面での扱いは決まっていきます。僕の経験談も似たようなケースで、夕刊が出ていない地域で発行される朝刊早版では、夕刊ネタの関連記事で1面トップを張れるものの、後版になると、何か新しいネタにしないと紙面がくすんでしまう。みると、早版の経済面に「ちょっと面白い」囲み記事がある。ならば、これを膨らませてアタマにしよう。。。。となったわけです。

紙面での扱いは、書いた記者にも、その上司にも「わからない」ものなのです。紙面構成の責任者である整理部長や朝刊・夕刊の「編集長」を務める編集局次長が独断で決めるわけでもありません。そのときにあるネタの「相関関係」が最大の要因です。しかも、それは「そのとき」にならないとわからない・・・。

だから、ネタの「大きさ」はあくまで目安と考え、パブリシティの「予測」は慎重にすべきです。また、想定される露出の大きさが「5」から「10」の範囲だとしたら、僕はいつも「5」を示すことにしています。期待してがっかりするより、厳しいと覚悟してほっとするほうが、人は満足するからです。

これは、結果としてのパブリシティは完全に予測できない、という、このビジネスの宿命ゆえの、PRパーソンとしての処世術です。

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めでたさも・・・

皆様、あけましておめでとうございます。

今日から仕事始めの人は多いことと推察します。僕も今日から本格的に2009年の仕事を開始しました。

・・・が、数日前から耳の下あたりが腫れ、気になるので内科で診てもらったところ、なんと「おたふく風邪」との診断でした。医師から「かかったことないでしょう?」と言われても、本当のところどうなのか、はっきりした記憶がありません。幼いころ、学校を休んだクラスメートの「おたふく」顔を勝手に想像して、ケラケラ笑っていたことくらいしか憶えていません。何はともあれ、薬をいただき、ひと安心でした。

それにしても、40歳を過ぎて「おたふく」とは・・・。昨年は突然、血液型がA型からO型に変わったり(病院の検査で驚きの結果)、いろいろと想定外の出来事が起こるものです。

話は変わりますが、年賀状を出さないようになって(おそらく)3年目となります。出さなきゃ来ない、ということか、受け取る枚数もぐんぐん減っています。いただいた方には、年が明けてからコンビニでハガキを買い、返信するようにはしています。ただ、メールアドレスがわかる方には、メールで返すようにてしています。(今日、まとめて年賀メールを送るつもりが、“おたふく”の影響で先送りとなりそうです。すみません!)

新年の誓いは、これまでの人生であまりにも「反故」を繰り返してきたので、もうやめます。だいたい、365日に1度のサイクルでやってくる、「年が明けた」くらいのことで、それまでできなかったことが成し遂げられるのなら、人間はだれも苦労しないだろうと思うのです。必要なときに、必要な「誓い」を宣言していきたい、と思います。

したがって、なんとも締まらない年頭の挨拶ではありますが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。年末年始の出来事や考えたことについては、おいおいブログに書いていこうと思います。

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マクドナルドの「サクラ」事件

マクドナルドの新ハンバーガー発売で、徹夜で大阪の店頭に並んだ行列に「サクラ」がいたと、数日前にニュースになりました。各紙の記事は、おおむねマックに批判的です。その後、東京での発売でも、批判的な記事を引きずっています。

記事でマクドナルド側が答えているのを見ると、アンケートに答えてもらうためのモニター1000人を動員した、ということですが、PRの観点から見ると、教訓に満ちた事例だといえます。

「事実」だけを考えると、そもそも「サクラ」がどれほど悪いことなのか?という素朴な疑問に突き当たります。街頭のたたき売りで、まずサクラに買わせ、周囲の客を巻き込んでいくのは古典的な手法だし、街によくある「行列のできる○○」にサクラがまったく関与していない、ともいえないでしょう。

しかも、今回のマクドナルドの場合、発売と同時に購入、味わってもらい、アンケートに回答してもらうためのモニターを動員したのであり、それが(たまたま)行列の一部となったのだ、という、それなりの理屈もあります。

マクドナルドで今回の企画を考えた方が、どのような整理をされたのかは分かりませんが、マーケティングの視点から見れば、これが後に大きな問題をはらむとは、考えにくいケースだったのでしょう。「プロモーション、キャンペーンなんだから、そのくらい普通じゃない?」「(モニター動員が)ばれたとしても、かえって話題になるんじゃない?」「モニター調査なんて常識。そもそもサクラなんて呼ばないでしょう、イマドキ・・・」と。

それなのに、なんでまた、マスコミはこんなに「叩く」のだろう? ちょっと神経質過ぎないか?・・・。

勝手な想像で失礼しますが、もし、そのように考えたとしたら、メディア対策の基本が抜け落ちていると言わざるをえません。

1店舗の1日あたり売上記録を更新した、と伝えるマクドナルドのプレスリリース(12月24日付)をご覧ください。底なしのデフレ不況にあえぐ年の瀬、久々の明るいニュースです。「世間が元気になるニュースだ」「マックは頑張っているな」「よし、大きな記事にしてやろう」と好意的に考え、やはり徹夜で行列を取材して、記事を出稿した記者たちが、あとになって「あの行列のうち1000人はサクラだった」「最高記録となった売上にはサクラが買った分も含まれる」ことを知ったとき、どんな気持ちになるでしょうか。

「だまされた!」と感じます。だから、マクドナルドを批判する記事が一斉に出るのです。

勘違いすべきでないのは、今回、マスコミが「怒って」いるのは、マクドナルドがモニターを動員したこと自体ではなく、その事実を伏せたまま、「過去最高売上」「徹夜の大行列」をアナウンスしたことにあります。それを信じて記事を書いた記者には、誤った情報を読者に届けてしまった、という「損害」が発生しているのです。

記事の中でマクドナルド側は「モニターの購入分を除外しても売上記録更新は変わらない」との趣旨でコメントしています。それならば、はじめからプレスリリースの中で「市場調査のためにモニター1000人を動員している」こと、「その分を差し引いた売上は○○○円であり、それだけでも記録更新となる」ことを、但し書きで明記しておけばよかったと思います。

そうしておけば、何の問題も起こらなかったでしょう。行列は1万5000人もいたそうですから、それが1万4000人であろうと、多少の「サクラ効果」があろうと、大勢に影響ありません。売上記録も、「純粋なお客さん」だけで更新しているのですから、ケチはつきません。「モニター」が「サクラ」と、批判的に言い換えられて、活字になることもなかったはずです。

「報道」としてメディアに露出される「パブリシティ」は、「広告」と異なり、おカネで買うものではありません。メディア(その背後の読者・視聴者)にとって価値のあるニュース素材を、それが「ウソ」「誇張」「間違い」ではないという信頼のもとに提供するから、企業にとっては、無料で宣伝できる、というメリットが発生します。

マクドナルドが今回、メディアから失った「信頼」を回復するのは、容易なことではないと思います。

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鍋日和

「天気予報に登場。“鍋日和”を知る『鍋指数』」という記事をみつけました。

いくら寒い冬でも、毎日、夕食に「鍋」を食べる人はほとんどいないとは思いますが、確かに「ときどき」食べたくなる。その味だけでなく、皆で同じものを囲んで分け合う、という行為そのものに、ひかれるのでしょうね。

さて、この「鍋指数」、PRの観点からみると、とても面白い仕掛けです。

「天気」とは、マスメディアがもつ最強コンテンツのひとつです。ほぼすべての人が関心を持ち、つねに気になっているテーマであること。さまざまなビジネスに直接、大きく影響する自然現象であること。事前に「予想」することにしか価値がなく、「そのとき」入手しないと無意味な情報であること。つまり、きわめて多くの人が、かなり真剣に(集中して)接する情報であることが、その理由です。

そのため、企業などが気象予報会社・機関とタイアップして、「○○指数」「○○日和」を発表するという手法は、過去にもありました。今回の「鍋」も、もしかしたら、食材か飲食店か、なんらかの関係業界が仕込んだPR戦略かもしれませんね。経緯はどうあれ、思わず心があったかくなるような、粋な企画だと感じます。

いま、出張先の飛騨高山のホテルで書いています。昨夜は、飛騨牛のしゃぶしゃぶ「鍋」をごちそうになりました。噂に聞く飛騨牛、生まれて初めて食べてみましたが、その美味しさは、ちょっと大げさにいえば「筆舌に尽くし難し」。夜が更けて店を出て、自分の吐く息の白さに、さすが高山の寒さを知るものの、お酒も手伝い、身体はほくほくなのでした。あとで知る「鍋日和」も、いいものです。

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「・・させていただく」、とは

文化放送からフリーになったアナウンサー、梶原しげるさんの「すべらない敬語」(新潮新書)を読みました。いわゆる敬語本は巷にたくさんありますが、丁寧でわかりやすく、また、身近なケースを多く取り上げているため、とても面白い一冊でした。

細かい内容は読んでいただくとして、ビジネスの世界に身を置く立場としては、この本が指摘する「過剰な敬語使用」に陥る危険をつねに認識すべきだ、と痛感しています。

よくクライアントへのメールで使う表現に、「・・・させていただきます」があります。さて、この「させていただく」とはいったい何なのか? 「・・・いたします」とどこが違うのか? 考えてみれば、「させていただく」とは、①相手に許可を求める ②相手から受けた恩恵への感謝 のいずれかが込められた表現であるべきですが、僕も実際にはかなりルーズに使っていることに、気づきました。

丁寧なのだからいいじゃないか、という考え方もあるのですが、敬語とは敬意を表し、相手に伝えるための道具ですから、そうでないときに使っていると、いざ必要なときに、その役割を果たせなくなってしまう、というリスクがあります。もうひとつは、言葉(文章)に飾りが多すぎると、伝えたい内容がスムーズに伝わりにくい、という現実的な問題。さらには、慇懃無礼とも言いますが、不要な敬語表現は必ずしも受け手に好感をもたらすわけではない、という面も。

似たようなケースは、ビジネスシーンを振り返れば数えきれないほどあります。「社長、まずは『おビール』でも・・」などというのも、社長の持ち物(『おクルマ』など)ならともかく、店の冷蔵庫から引っ張りだしてきたビールに敬意を払うことになるのですから、アベコベです。

こうしたことは、よくよく考えれば誰だってわかるのですが、とりわけ口から出す言葉は、出たとたんに消えてなくなってしまうために、顧みて分析することが難しい。こういう書物が、繰り返し売れている理由でしょう。

ずいぶん前になりますが、勤務先で同僚向けのセミナー講師を務めたときのこと。録画してくれた人がいたので、事後、テープを見てみました。こういう体験は初めてだったのですが、驚いたのなんの・・・。自分の姿勢の悪さ(背筋がぐにゃっと曲がっていた)、だらだらした話し方、「あの」「えー」など無駄な発声の多いこと。自分ではまったく気付かず、「まあまあ、うまくできただろう」などと安心していただけに、大きなショックを受けたものです。(ちなみに、メディアトレーニングで、受講者に必ず自らの録画映像を見てもらうのも、こうした『気づき』を与えるのが目的です)

そんな、「気づき」をもたらしてくれる一冊でした。お勧めです。

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テレビとCM

PR会社が、その活動の「成果」を図るモノサシとして、最もポピュラーなのが「広告換算」です。(広告ではなく)パブリシティとして新聞や雑誌、テレビに掲載・放映されたスペースや時間を、その媒体の広告単価(定価)に掛け合わせて算出する金額です。わかりやすく言うと、「弊社のPR活動によって、御社(クライアント)の評価を高める報道露出(パブリシティ)がこれだけありました。これと同じスペース・時間だけ広告を出した場合、(広告制作費は除く)媒体費はこれだけの金額になります」・・・ということです。

なぜ広告費を使ってパブリシティの効果を測定するのか、いぶかる方も多いと思いますが、細かい説明を省くと、結局、パブリシティの効果を計るうえで、最も客観的な指標が、これしかない、ということに尽きます。

PR会社では、この広告換算額を重視しつつ、PRの効果とは、単純な広告換算額よりも大きいものだと主張するのが常です。つまり、「広告とは、企業が自社の宣伝を自らの名において行うものである。一方、パブリシティとは、報道機関という社会の信頼を得ている第三者が、客観的な評価として打ち出すものであり、当然、読者・視聴者への影響は大きい。然るに、その価値は単純な広告換算額の2倍~3倍とみるべきである」・・・という論理です。これは、大筋で正しい考え方であると、僕も思います。

しかし、最近、疑問が募って仕方ないのが、とりわけテレビの広告費です。

個人的な話をしますと、僕は近年、ほとんどテレビを見ていません。ちょっと訂正すると、地上波をほとんど見ていないのです。地上波で継続的に見ているものは、①爆笑 レッド・カーペット ②NHKスペシャル ③報道ステーション ④スーパーJチャンネル ⑤その他随時――くらいで、これらはすべて、自宅のHDDレコーダーか、仕事の素材としてオフィスの(PC用)テレビ受信ソフトで録画しているものばかりです。つまり、リアルタイムで視聴している地上波のテレビ番組は、ほとんどないのです。どちらかというと、CSチャンネルに好きな番組は多いです。

HDDレコーダー、CATVを含む多チャンネル視聴の普及とともに、こういったテレビの「見方」をしている人は、全国にかなりいるのだろうと推測しています。問題は、このようなスタイルでテレビを見る人にとって、CM(広告)とは、その大部分が「早送り」か、あるいは“CM飛ばし”の対象でしかない、という事実です。早い話が、CMは見られていない(少なくとも僕はこの数年間、テレビCMをほとんど見ていない)。

見たいコンテンツを購入して楽しむ「オンデマンド」は、数年前から必要性が叫ばれていたけれど、著作権処理が難航していると聞きます。その間に進んだHDDレコーダーの普及は、テレビに相対する人々の視聴スタイルを革命的に変えたといえるでしょう。

さて、日本における視聴率調査は、ニールセンが撤退した今、ビデオリサーチ1社に任されている状態です。ビデオリサーチhttp://www.videor.co.jp/company/index.htmの株主構成をみると、大手広告代理店と全国の放送局で固まっていることがよくわかります。昨今のテレビ視聴の変化に、どのように対応しているのか興味がありますが、いろいろ聞くと、どちらかというと旧態依然の手法を引きずっているようにも見えます。この株主構成では、仕方ないとも言えますが。。。世帯視聴率、個人視聴率――。これらの数値の“信憑性”については、さまざまな意見が示されています。

本来は、多額のお金を投下している広告主が、自らの投資がどれだけ有効であるか、チェックするのが理想だとは思うのですが、だからといってトヨタをはじめとする日本の大企業が、自前で視聴率調査会社を設立するとも思えません。その間に、僕が素朴に感じたような「ギャップ」が、少しずつ、しかし着実に拡大していくのでしょう。

テレビの歴史を紐解くと、必ず登場するのが、力道山の試合を中継した「街頭テレビ」。テレビが庶民のメディアであることを説明する、あまりに有名なケースです。庶民のメディアだからこそ、(有料で購読する新聞などと異なり)受信機さえあれば無料で受信できる。けれど、そこには「さあ、これを見ろ!」という、送り手の勝手な価値観が、どうしても強く残ってしまうものです。

やはり、この分野でも、時代を大きく変えた(変えつつある)のはインターネットです。人々が、「見たいものを見る」「(必要と感じれば)お金を払ってでも見る」ことに慣れつつある、つまり、情報の流れが消費者主導に変わりつつある中で、地上波テレビはどのようにして活路を見出すのか。懸命に映画製作などにシフトしているフジテレビを筆頭に、既存テレビ局が、映像コンテンツの牙城としての地位を誇っていることは間違いありません。ただ、前述したように、著作権処理のハードルが高いこと、さらに、消費者主導の映像コンテンツ流通を志向するならば、必然的に地上波テレビの既存ビジネスの枠組みを自ら壊す方向へ向かう、というジレンマに陥るはずです。

お金を払わなくても、スイッチをひねる(今はリモコンを押す)だけで情報が流れ出てくる。これがテレビの本質でした。その「ありがたさ」に乗っかって、ひたすら消費意欲を喚起してきたのがCMだとすると、みんなまとめて、大きな「節目」に差し掛かっているような気がします。

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マジックの「技量」

金曜の夜は、ベンチャー企業の交流会(パーティー)に参加してきました。

参加した方々の個性と魅力もさることながら、ゲスト参加のマジシャン「Mr.HERO」さんのマジックに、会場は大いに盛り上がったのでした。

Mr.HEROさんについてはhttp://www.ivjapan.com/magic/をご参照いただくとして、この方のマジックの特徴は「コミュニケーションマジック」と銘打ち、観衆も一緒にマジックを楽しむことで、互いのコミュニケーションを活性化させるという、組織活性化の研修メニューとして成功している点にあります。この夜も、チェーンとリングを使ったマジックに全員でトライしました。

マジックグッズの割引即売もあり、僕は結局、このチェーン&リングと、誕生日をズバリあてるカード一式、「好きな花」をズバリあてるカード一式、白紙がモノクロ、カラーに豹変する不思議な本――の4品を購入してしまいました。カードは名刺大にできているので、いつも持ち運び、仕事先でも同僚とでも楽しむことができます。すべて、Mr.HEROさんの企画・手作りだそうです。

人前で手品を披露することは、実はかなりの技量と情熱を要するものです。僕はかつて、サイコロの目をズバリあてる不思議な箱と、勝手に動く不思議なピエロを、街頭で衝動買いしたことがありますが、家族に何度か見せるうち、すっかり情熱を失い、そのまま行方不明になってしまいました。

なぜそうなるのか考えてみると、①家族相手なので「練習」でいいだろうと甘く考え、訓練を怠るため、失敗を繰り返す→家族は盛り上がらない ②同じ理由から「ショーアップ」を本気でせず、だらけた雰囲気になっている・・・ことにあるようです。

マジックは、タネがわかってしまうと、あまりに簡単な(だから気付かない)仕掛けであることから、自分が演じる側にまわったとき、「本気」を維持するのが大変になります。

パーティーのあと、一緒に参加した元同僚のYさんと飲みながら、しみじみと語りあいました。結局、マジックそのものよりも、その前後の「演技」の質の高さと情熱に、観衆は心を奪われるのだろう、と。コミュニケーションビジネスの世界に身を置く立場としては、実に興味深く、勉強になります。

Mr.HEROさんも、その点を強調していました。語り口、身振り、表情、目線、すべてのコミュニケーションが成功したときが、マジックの成功である、と。

まずは、「演技」が比較的簡単な、誕生日をズバリあてるカード一式を名刺入れに忍ばせ、チャンスがきたら使ってみようと思います。

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師走

今年も実質、あと2週間あまりですね。

PRの仕事は、何をするにもクライアントしだいですから、年末は年末らしく・・・といった、パターン化した季節感とは、あまり縁がありません。

ただ、個人的には、今年の師走は、ひときわ感慨深い季節になりました。

前職のPR会社を退職し、独立したのが7月。以来、5カ月ちょっとしか経っていないのに、ずいぶん長い時間を過ごしたような気がします。

「自由」な立場のメリットとデメリットを肌身に感じながら、サラリーマン時代には縁がなかった方々との新しい出会い、ふるい友人たちとの再会や、それまでとは違った付き合い方・・・。この仕事をしていくうえでの、自分の「能力」という大問題についても、客観的に見つめなおすことができました。

さまざまな人と関わりを経験して、あらためて、人の縁に感謝、感謝の年の瀬です。

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橋下・大阪府知事を応援します

大阪出張で泊まるホテルでテレビをつけると、よく橋下府知事が出てきます。たった今も、出ていました。

閑古鳥が鳴いている関西国際空港(関空)を救おうと、航空会社の幹部に直談判して、「伊丹・成田便を減らしてほしい(その分を関空に回す?)」と訴えたとのこと。ところが、相対した日本航空の幹部から「お客様の満足が第一(そんな要望は受け入れられない)」と原則論で反論され、アナウンサーは「さんざんな直談判」と、ニュースをまとめていました。

橋下知事には、さまざまな評価があると思います。ただ、僕が大阪で見聞きする限り、府民からの「シンパシー」は、今も続いていると感じます。メディア露出が衰えていないのが、そう感じる根拠です。テレビをはじめとするマスメディアが繰り返し「使う」人物は、大半の視聴者にとって「気持ちいい」存在であることが必須。橋下知事は、自身がその立場にあり続けるための「仕掛け」を、次から次へと繰り出しています。

関空の問題でもそうです。通常、大阪府知事たる人物が、根回し(仕組まれたシナリオ)なしで、日本航空などの幹部とオープン(公開)で会談し、その場でやり返されることなど、日本の地方自治の常識ではありえません。メディアが入るオープンな場では、社交辞令ですませておいて、本音の話は裏でやるなり、それ以前に済んでいたり、というのが当たり前です。しかし、橋下知事の手法は、あえて自分が「恥をかく」ことで、問題の本質を浮きぼりにし、有権者の議論を喚起するところにあるのではないでしょうか。

先日、かなり大きく取り上げられた、大阪の小中学校での「携帯電話持ち込み禁止」宣言もそう。「子供の携帯電話は親が安全のために持たせている」という反論が噴出することを承知で、「しかし、携帯ばかりいじっている現代の子供たちに問題はないのか?」という、もう一方の世論を強く刺激しています。この議論は、「子供の安全」という錦の御旗が絡むため、こう着状態が続いていると感じますが、橋下知事のひとことで、議論のきっかけが生まれたといえるでしょう。

この問題に絡めて、大阪の子供の学力が全国最下位クラスである、という「恥」を、自らさらけ出したことも特筆に値すると思います。

橋下知事が、このような思い切った言動ができる要因は、ひとつには、そこまでしないと、今の大阪にカンフル剤を与えることができないという、現実的な事情があるでしょう。もうひとつには、彼は、有権者に直接、選挙で選ばれたことの責任と、そのメリットを最大限、政治活動に反映させているのだと思います。

市町村の議員と首長、そして国会議員は直接民主主義で選ぶのに、国のトップたる総理大臣だけは間接民主主義で選ばれる、考えてみれば不思議な制度の下に、この社会は成り立っています。この仕組みについては、ポピュリズムによって独裁者を生まないためとか、安定した政治(与党主導政治)のためだとか、さまざな説明があり、学校でも(少しは)教えられています。

本当に、この制度が正しいのだろうか、と最近、疑問にとらわれます。選ばれる人物の自覚と覚悟、選ぶ(実際には直接選んでいない)人間の責任感、双方とも欠けているように思えて仕方ありません。僕が最もショックだったのは、かの福田前首相が辞任会見で見せた、なんとも力の抜ける「無責任感」でした。

自分が一票を投じた人物が当選し、その後、酷評されるような仕事をすれば、選んだ側にも責任(自責)が芽生えます。大阪府民はその点、コメディアンに裏切られ、女性知事にも肩透かしを喰わされ、さまざまな変遷を経て、現在の橋下知事にたどりつきました。いろいろ評価はあるでしょうが、少なくとも、自分で選んできた以上、心の中に何らかの蓄積、教訓は残るはずです。橋下知事は、それに期待し、賭けて、今まで誰もやらなかったパフォーマンスに打って出ているのだろうと推測します。

とにかく今は、橋下知事を応援しています。

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麻生首相のぶら下がり会見

麻生首相のぶら下がり会見がまた、記事になっています。

以前にもこのブログで書いたことがありますが、日本の総理大臣について「国民に顔が見えない」というのはちょっと可哀そうな話で、なんと毎日(平日)2回、午前と午後にぶら下がり形式の記者会見をこなしています。午前は活字メディア、午後がテレビ(カメラが入る)という具合で、やむを得ない日程がない限り、毎日、行われています。

麻生さんについては当初、記者にも「こわもて」で迫り、物議をかもしたのは、記事にある通り。それを修正して、「ニコニコ路線」に変わった、という話ですが、安倍元首相もしかり、この記者会見を苦手とする総理大臣は多いようです。

なぜそうなのか、考えてみると、おそらく、あまりに頻繁に開かれることが原因ではないかと考えます。

大企業のトップでも、毎日記者会見する人などありえません。定例会見は、せいぜい月に1度でしょう。事務次官や首長など官庁・自治体のトップでも、週に1度がいいところ。なぜか、日本の最高権力者だけが、1日2回という、異常な頻度で記者会見を開いているわけです。(なぜそうなったかについては、いろいろ経緯があるので、あらためて・・・)

「記者に相対するときは、その背後にいる読者・視聴者と対話していると思え」。これは、メディア対応の基本中の基本、「いろは」の「い」です。これに失敗する典型例が、危機発生後の記者会見で「なんでオレが悪い」「たいしたことない」といったニュアンスの失言を吐いて袋叩きにあう経営者ですね。こういったケースでは、たいていの場合、記者との質疑応答の中で、前述の基本をうっかり忘れ、眼前の記者との「関係」の中で発言してしまうことが原因です。

日本の総理大臣が可哀そうだと思うのは、毎日2回という頻度で、毎回同じ顔ぶれの記者たち(総理番)と相対し、さらに、毎回同じことを繰り返し問われる、という状況に置かれることです。もうひとつ、この「番記者」たちの大半は、政治報道の経験が乏しい若手記者(入社直後に総理番を担当させる社さえある)だということを付け加えましょう。

この立場に置かれたら、「なれあい」と「いらいら」と「退屈」をぐっとこらえ、つねに「記者の背後にいる国民の皆様」に向かって、誠心誠意、しかも魅力的に語り続けるなどという芸当は、よほどの超人でなければ、うまくこなせないだろうと思うのです。

さらに、このぶら下がり会見のほとんどは、活字や映像で報道されることがありません。いまの予算をめぐる攻防のように、政局が緊迫してくると報道されますが、大半は「聞きっぱなし」「喋りっぱなし」のまま。報道するかどうかを決める権限は、メディア側にあるので、総理大臣にすれば、ずーっと報道されなかったものが、ある日突然、ニュースで流されたりもする。だから、なおさらやっかいです。

この難しい役回りを、徹頭徹尾、マイペースで貫き通したのは、かの小泉さんくらいしか浮かびません。あの、カメラを「きっ」と見据え、必要最低限の言葉を短い「サウンドバイト」にまとめ、まるで「斬る」ように話す・・・。感情を隠し、意思だけを浮かび上がらせるフィルター越しに、見ているような気がしたものです。

やはり超人、いや、変人ゆえ、なのでしょうか。

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若手記者のナヤミ

転職してジャーナリストになり、地方の支局で記者をしているAさんと、ひょんなところで再会。支局勤めも1年が過ぎ、仕事にも慣れてきたようで、まずは安心しました。記者の仕事は「適性」がはっきりと出るので、とても耐えられない、というタイプの人は、最初の支局勤めで、すでにぐったりしてしまうものです。そうでないということは、まずは「耐性」があるということ。

Aさんいわく、「私はネタ取り競争にはあまり興味がわかない。じっくりと書く仕事がしたい」。僕もかつて、同じことを考えていたので、その気持ちは痛いほどよくわかります。

警察担当(サツ廻り)に象徴される、支局での特ダネ合戦は、それが若手記者の「育成プロセス」であると位置づけられていることもあり、かなり過熱します。「サツでネタを取れなければ一人前の記者にはなれない」といった価値観が強くあるからです。

若手記者には2つのタイプがいます。その価値観を受け入れ、熾烈な特ダネ競争に勝ち残り、「勝つ味」をたっぷり知って、立派なスクープ記者へと育っていくタイプ。そして、どうしても「競争」に本気になれず、「私にはこっちは向いていないのでは」と、悶々としながら、活路を模索するタイプ。

Aさんは後者のようです。僕もまた、そうでした。

そうした記者の「生きがい」は、「独自ダネ」と呼ばれる記事を書くこと。一般的に特ダネとは、ほかのメディアが「追いかけ」てくるスクープのことをいいます。一方、独自ダネとは、必ずしも他紙が後押ししなくても、独自の視点と価値観を武器に、埋もれているニュースを世に出すこと。

僕はよく、「徒競争(かけっこ)が好きか、ひとりで長距離を走るのが好きか」といった図式で、記者の2つのタイプを説明します。ヨーイドンで一斉に走り出し、その中で一番になってやる!と執念を燃やす人もいれば、ほかのプレイヤーにはあまり興味がなく、自分自身で納得のいく走りをすることを重視する人もいます。Aさんはまた、ここでも後者の典型だったようです。

人数の少ない支局だと、とくに地元紙の圧倒的な取材陣容に押され、それこそ毎日のように「抜かれ」ることなります。たとえば県警担当記者が、こちらはひとりなのに、地元紙は十数人もいて、県庁所在地の市内各署にひとりずつ張り付いている、なんてことが珍しくありません。そうすると、ますます「競争」に興味がなくなってくる。

さて、僕はAさんに、こんなことを言いました。「地元紙に30連発で抜かれても気にすることはない。だけど、1年に1回でも、半年に1回でもいいから、地元紙が青ざめるような特ダネ・独自ダネを書くべきだ」と。

わが身を顧みれば、えらそうなことを言えるような手柄はありません。しかし、どうしても伝えたかったのは、「時間の感覚を失った記者は、少なくともプロの記者ではなくなる」ということです。時間の感覚とは、ライバルよりも、誰よりも、「早く書く、(ニュースを)早く世に出す」ということ。

なぜそれが重要なのか、理由は2つあります。

①「書きたい」「世に出したい」という意欲と情熱に溢れる記者にしか、情報源は(貴重な)情報を与えないから

②記者は評論家ではないから(記者とはいったい何が『プロ』なのか?)

①でいう「意欲・情熱」は、対象が「情報」(それを知る人間が少ないほど価値が大きい)である以上、必然的に「時間感覚」を伴います。つまり、「書きたい」意欲とは常に「早く書きたい」意欲である(あるべき)わけです。

②については、記者の能力(プロたる所以)とは、文章作成能力と取材能力の2つしかありえない、ということに尽きます。文章がうまい人は世の中にたくさんいます。取材能力のある人も、かなりいるでしょう。では、大学の学生新聞編集部に所属するきわめて優秀な記者(学生)と、プロの記者はどう違うのか?? まだ世に出ていない情報(一次情報)を、さまざまな「リスク」を乗り越えて、世に出す(公にする)ための「技術」を持っているのが、後者です。そうでなければ、評論家になります。

ずいぶん高所から書いてしまい、恥ずかしい限りですが、結論をいえば、「競争」意識がなければ、どんな仕事の仕方であれ、「プロの記者」でいることはできない、ということになります。

Aさんが、支局にいる残り数年間で、「地元紙が青ざめる」ような記事を世に出すことを、期待しています。 

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書評 「見てわかるDNAのしくみ」

見てわかるDNAのしくみ」(講談社ブルーバックス)という本に、はまっています。

本といっても、DVDが3枚ついて、文章は補足的な解説というものです。このDVDがとても面白い、というより、分かりやすいのです。

PRの仕事で最近、クローン技術について勉強を迫られることが多く、「細胞核」とか「DNA」といった事柄に興味を持ちました。が、DNAによって何ができるか・・・の書物は多くあるものの、いったいDNAって何?という素朴な疑問に答えてくれる、しかも簡単な資料は意外に少なかったのです。

この本は「DNAそのもの」を解説することが目的で、分かりやすさを追求するために、映像という手段を最大限、活用した、と前書きにあります。確かに、細胞の中にあるDNAがどんな姿かたちをしていて、どのようにして情報をタンパク質に写し込み、その結果として個々の細胞を「働かせ」るのか?など、まったく知らなかったことを、かなりのリアリティをもって理解できたような気になります。これは映像のもつ力ゆえでしょう。

同じことを活字主体の書物で理解しようと思ったら、いったい何冊読み、何時間費やすことになるだろう、と考えると、このテーマで映像を最大限活用した著者の狙いは、まったく正しいと思います。

映像の美しさも特筆もので、飽きません。このテーマにちょっと関心があるけれど、とっつきにくくて・・・、という人にはお勧めです。

 

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披露宴のスピーチ

日曜は前職の同僚、Sさんの結婚式でした。

披露宴で「元上司」としてのスピーチを頼まれ、よくよく考えてみると、結婚披露宴でスピーチするのは初めて。行きの電車の中で数枚のメモをまとめてみたものの、なんだかしっくりときません。

受けを取らなきゃ、じーんとさせなきゃ、品よくやらなきゃ・・・と、いろいろな「目的」が重なり合って、なかなかまとまらないものです。披露宴の席についてからも、ああでもない、こうでもない、と考えがめぐり、順番が回ってきたときには、メモは頭からすっかり飛んでいました。

さて、僕も含めて8人くらいがスピーチに立ったのですが、これも時代の変化かもしれませんが、折りたたんだ紙を内ポケットから取り出して・・・という、原稿持参の方がほとんどいなかったことは、ちょっとした驚きでした。しかも、皆さん、本当にスピーチがお上手でした。

最後にスピーチをされた方は、北海道出身である新郎Sさんの小学生時代からの友人という男性。この方だけが、(おそらくは)簡単なメモを手に、マイクの前に立ちました。

あまり人前で話すことが得意な方ではないのかもしれません。決して流暢ではなく、ときどきメモを確かめ、しかし、一言ひとことをかみしめながら、新郎に呼びかけ、語りかけていました。

その内容を詳しく書くのは憚られますが、僕はこの方のスピーチを聴いていて、もう少しで涙がこぼれるところでした。おそらく、会場にいた少なからぬ人々が、そうだっただろうと思います。スピーチが終わったときの拍手は、それまでの3倍の長さで鳴りやまなかったのですから。

聴いていた誰もが「ふるさと」と「友」、このふたつに思いを馳せ、心を揺り動かされた。そう感じます。素晴らしいスピーチでした。

コミュニケーションを仕事とする限り、いかにして効果的なメッセージを発信するかというテーマは永遠です。あのスピーチを聴いて、深く深く考えさせられたと同時に、とても大事なことを教わりました。

素敵な「ふるさと」と「友」を持つSさんは、美しく聡明な奥様と結ばれました。至らぬ「元上司」として、ささやかながらお祝いの言葉を贈ります。

いつまでもお幸せに!

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点描  都橋

Photo 京浜急行の日ノ出町駅から大岡川を伊勢佐木町方面へ渡る、「都橋」の上から。

川に沿って曲線を描き、アパートのベランダのように見えるのは、ずらりと並んだ飲み屋さんです。反対側、店の入口があるのは「野毛」の街。猥雑だけれど、どこかほっとする場所です。

僕が好きなのは、川面に映るさかさまの風景。日が暮れると、店の色とりどりのネオンが風に揺れて、ちょっと見とれるほど。

バイク通勤はやめ、日ノ出町からオフィスまで、朝晩、30分ほど早足で歩いています。1日2回、通り過ぎる場所なのに、必ず立ち止まってしまう。不思議な場所です。

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「ホテルのバー」

はたして麻生首相は、支持率を回復基調に乗せて解散総選挙に打って出ることができるのか? まさに、政府・与党のPR戦略が問われる状況となっています。

そんな中、ほろ酔いのテレビ記者から深夜に電話が。

「麻生さんは本当に大丈夫だろうか。夕方、学生と居酒屋で飲んだその後、相変わらず『ホテルのバー』に行くのだから。マスコミへの挑戦だろうか」

11月9日の「首相動静」(朝日新聞)を見ると・・・

■(午後)7時9分、東京・宇田川町の居酒屋「北の家族」で自民党学生部の大学生らと懇談。■8時26分、東京・虎の門のホテルオークラ。バー「ハイランダー」で秘書官と懇談。

なるほど、このことでした。高いの高くないのと世間を騒がしている、例の「(高級)ホテルのバー」というやつですね。

飲み放題付き3000円(!)という、にわかには信じられないコースを楽しみながら、「北の家族」で学生と歓談するワイシャツ姿の麻生首相は、テレビのニュースで目にしました。同じ日の「はしご酒」としては、確かに、ちょっと・・・と言いたくなるチョイスではあります。

ただ、この記者が「マスコミへの挑戦」と口にする理由は、2つあるようです。

ひとつは、いわゆる「庶民感覚との乖離」――ですが、これは建前論に過ぎません。なぜなら、これまで政治家の夜の会合の場所として定番だった「料亭」や「日本料理店」より、ホテルのバーははるかに「安い」からです。ちなみに、ホテルオークラのバー「ハイランダー」のメニュー・料金はhttp://www.hotelokura.co.jp/tokyo/restaurant/bar/highlander/index.htmlという具合です。3000円もあれば、ビールの2杯くらい飲めそうだし、何より、「一見さん」には敷居が高い料亭などと異なり、誰でも入店可能です。だから、高級ホテルのバーだから庶民感覚とかけ離れている、という批判は、まったくの的外れだと僕は考えます。

もうひとつの理由が、総理大臣の夜の会合の「中身」がメディアに(容易に)わからない、という問題です。毎日新聞の記事が伝えているように、巨大ホテルの一角にすぎないバーでの会合は、その「相手」を突き止めることからして、難しい。麻生首相のように、毎晩のようにホテルのバーで「会合」を持つ総理大臣は前例がありません。先の「首相動静」には「秘書官と懇談」と首相官邸の発表通りに記載されていますが、首相が本当に「秘書官だけと懇談」したと思う記者はひとりもいません。メディアも戸惑い、苛立っているのでしょう。

この事情について、首相とメディアのどっちがどうだと論評するのはさて置き、ひとつ気になるのは、麻生首相と政治メディアとの間に、すきま風とも呼ぶべき、白けた空気が徐々に広がっているように感じます。

日本の場合、総理大臣は分厚いメディアの層にくるまれています。最高権力者が直接、国民に肉声を届けることへの「障害」が、とても多い国です。だから、そのメディアに「どう思われるか」は、総理大臣にとって、きわめて重大な事柄になります。

このポイントも、麻生首相が今後、どのようにハンドルしていくのか、注目すべきだと思います。

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サウンドバイトの進化

米大統領選はオバマ氏の圧勝となりました。

オバマ氏の演説のうまさは、メディアで語りつくされた感がありますが、先日、NHKの「英語でしゃべらナイト」を観ていたら、歴代の米大統領の「スピーチ力」について、面白い分析を展開していました。

テレビを中心とするマスコミで、発言が効果的に取り上げられ、有権者へと伝わるために、政治家は「サウンドバイト」と呼ばれる短いフレーズを工夫します。これの先進国が、まさにアメリカです。

古くは「人民の、人民による、人民のための・・・」と語ったリンカーンのゲティスバーグ演説、「国が何をしてくれるかより、国のために何ができるか考えろ」と結構高飛車に迫ったケネディ、イラク攻撃の正当化に多大な“貢献”をした名文句「悪の枢軸」を編み出したブッシュ、などなど、それぞれの大統領の「キメ台詞」は、歴史のひとコマとして世界の人々の記憶に強烈に残っています。

このキメ台詞が、時代の流れとともにどんどん短く、シンプルになっている、というのが番組の分析でした。「悪の枢軸」もそうですし、オバマ氏の「Yes, we can !」も、これ以上短くできないくらいのフレーズです。

テレポリティクスとも揶揄される米国政治において、テレビの影響がどれだけ大きいかを考えれば、サウンドバイトが短く、シンプルに、そして歯切れよく、進化していくのは当然のことでしょう。まあ、これ以上は短くなりようがないだろうけれど。

オバマ氏の場合は、使う言葉の効果だけでなく、独特な「語り口」にも注目が集まりました。英語のわからない僕でも、テレビで彼の演説を聞いていると、なんだか引き込まれていくような気になります。

ある米国人は「キング牧師みたい」と評していました。キング牧師でなくとも、オバマ氏の語り口を「牧師」になぞらえる人が多かったのが印象的です。オバマ氏は、人種や政治信条などの壁を超えて「アメリカ合衆国」の団結を訴え、成功したというのが、定説になっています。だとすれば、「牧師」のイメージを彼が担ったという仮説は、なるほど合理的だと思えるのです。

「3回繰り返し」も、オバマ氏のスピーチの特徴です。たとえば、「もし(米国民の中に)●●の人がいたら。もし、××の人がいたら。もしも、△△の人がいたら。・・・私はこう言いたい」、という具合。話がわかりやすく、強調され、それでいてくどくない、絶妙なバランスです。プレゼンテーションにおいて、「3」が重要であることは以前、このブログに書いたことがあります。それはスピーチでも当てはまるようですね。

目を日本に向けると、サウンドバイトで一躍有名になったのは、かの小泉純一郎さんでした。「感動した!」「自民党をぶっ壊す!」など、品の良し悪しは別にして、とにかく気持ちがストレートに出て、強烈な、短い言葉の多用で、日本版テレポリティクスのさきがけとなりました。ただ、小泉さんの場合、オバマ氏のようにじっくり、しっとり聞かせるような演説は、ほとんど耳にしたことがありませんが・・・。

2005年の衆院選で頂点を迎える小泉旋風は、日本の政治とメディアの関係史上、はじめて表舞台に登場したと言っても過言ではないサウンドバイトの「ピーク」でもありました。

その後を継いだ安倍首相は、そもそも、このような「小泉的言語」がお好きではなかったようです。保守本流を標榜する政治家として、そうした手法を潔しとしなかった、のかもしれません。福田首相もその点は同じだったようです。

麻生首相は、前任の両首相とは、ちょっと異なるのではないかと推測します。テレポリティクスの効能をよく知り、チャンスがくれば最大限に活用したい、と考えているのはないでしょうか。ただ、まだその時期は訪れていない・・・と。

「変人」と称された小泉さんの場合、ミステリアスな印象が、サウンドバイトの効果を増幅しました。麻生首相には、ミステリアスな要素は少なく、また、多弁(たまに失言?)な政治家として国民に認識されています。

次の総選挙、麻生首相がテレポリティクスの土俵で勝利を目指そうとするなら、日本におけるサウンドバイトの使われ方は、その時、大きく進化するのではないかと、楽しみにしています。

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選挙PRの「限界」

米大統領選はいよいよ明日が投票日。オバマ候補の優位は動かないとみられています。

オバマ氏が全米のテレビ7局で30分にも及ぶCMを一斉放映したのは数日前のこと。マケイン陣営は地団駄踏んで悔しがったことでしょう。

選挙におけるPRには「限界」があります。大きな流れを「変える」効果を、PRだけに期待するのはきわめて難しいものです。大きな流れに「乗って」、それをさらに増幅させる効果は期待できます。しかし、「変える」となると、候補者なり政党なりによる「動き」がなければ、まず無理です。

2005年の「小泉選挙」(衆院選)では、自民党のPR戦略が脚光を浴びましたが、実際は、小泉さんが敷いたレールに乗り、PR部隊でさえ驚かされたサプライズに対応しながら、「小泉色」を広く深く、増幅することを試み、それに成功したというのが本当のところです。

一方、安倍内閣による2007年の参院選では、自民党は最後まで流れを引き寄せることができませんでした。2005年に民主党が味わった悲哀を、いやというほど味わったわけです。

流れをつかみ、乗っている陣営は、迷いなく、大胆な作戦を選択できます。反対の陣営は、本来は大胆に勝負しなくてはならないにも関わらず、失敗したときのダメージと責任を考え、大きく舵を切れない。だから、後手後手の対応が続き、じりじりと差が開く。選挙戦終盤にオバマ氏が仕掛けたテレビジャックは、その典型だと感じます。

さて、麻生首相は年内の解散総選挙を断念し、経済政策で支持率を上げてから、来年に勝負する戦略へ転換しました。国内外の経済状況を考えれば、僕個人的にはただしい選択だと考えます。ただ、どのような作戦で、来年に支持率を上げ、「先手」を打つかたちで総選挙に持ち込むのか。注目すべきポイントです。

選挙戦が始まってから、1ヵ月やそこらで勝負するPR合戦は、所詮は大きな流れが定まったあとの「増幅」が焦点。それに対し、中長期的に支持率を上げていく戦略こそ、PRの実力が問われるのは間違いありません。

年内総選挙がなくなって、PRパーソンとしての立場からみると、「面白くなった」と思います。

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点描 2008/10/17

081019_3 甘栗売り

中華街名物のひとつが、路上の甘栗売り。通行人に、なかば「強引」に味見させるのが、ここの流儀です。片手の指先で栗をつまみ、器用にくるっと皮をむいて、通行人のてのひらに、ぽとりと実を落とす。「もうひとつ」と言えば、にっこり笑って追加してくれます。気前がいいのです。 もちろん、味も。

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点描 2008/10/16

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夜釣り

夜の山下公園は恋人たちの独壇場かと思いきや、真剣に釣り竿を垂らす人の姿が。観覧車の電飾を映す水面から、どんな魚が浮上するのか。きっと、青や緑に全身の鱗をきらめかせ、幻想的なショーの主演女優となることでしょう。残念ながら、その瞬間には立ち会えなかったけれど。

これからちょくちょく、カメラを手に街へ出て、思いつくまま、気の向くままにシャッターを押すことにしました。「点描」、不定期に、気まぐれに掲載します。

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堤真一の演技力

映画「容疑者Xの献身」を観てきました。福山雅治主演「ガリレオ」シリーズの映画版で、正直いってそれほど期待していなかったのですが、「容疑者」役の堤真一の圧倒的な演技力に感銘を受けました。天才的な数学者だけれど、人生を諦め、いまは高校で数学を教える、しょぼくれた中年男。そんな暗い男が、望まずして殺人を犯した女性に恋をして、その幸薄い女性とひとり娘を守るために、人生を賭けて完全犯罪という「難問」を編み出す。20年前、キャンパスで出会い、互いに天才と認め合った、いまをときめく物理学者(福山)が、それに挑む。

個人的には、最後の最後、罪を背負って自首した「容疑者」の人生の輝きが輝いているままで、終わってほしかった。・・・が、やっぱり堤真一の演技力だけで十分、楽しめた映画でした。

最近、ひょんなことから高校3年のクラスの同窓会を企画することになり、卒業以来22年ぶりにクラスメートと連絡をとっています。親しかった人も、そうでない人もいて、電話の向こうの声に戸惑うこともしばしば。四半世紀とはよく言ったもので、時の重みを感じます。実際に会えば、互いに目を凝らして、言葉を絞り出して、22年の空白を一生懸命、埋めようと試みるのでしょう。埋まるべくもないけれど。

交差点のすれ違いでもいいから、それぞれの輝きに触れて一瞬たじろぐ、そんな時間を過ごせたら素晴らしい、と思います。

今日はこれからクライアントの記者会見です。頑張らなくては。

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「ジャーナリズム崩壊」を読んで

ジャーナリスト・上杉隆さんの「ジャーナリズム崩壊」(幻冬舎新書)を読みました。

正直に言うと、読むのがとても辛かった。内容がすべて事実だからです。

事実を書かれて辛い、というのは、人に胸を張って言いたくないような「仕事」を、僕もかつて、していたからです。

とにかく、ジャーナリズムに関心のある方には、読んで欲しいと思います。

書かれている内容について、ここで詳細には触れません。ただ、全国紙や通信社、テレビの報道など、日本の報道の中枢を担っているといわれるメディアで報道に携わった人なら、だれもが経験し、絶対におかしいと思いつつ、何もできずに通り過ぎてきた現実が、そのまま書かれています。

上杉さんはNHKとニューヨークタイムズでの記者経験があり、米国のジャーナリズムを引き合いに出しながら、筆を進めています。

これに対しては、昔から繰り返されてきた「日本の報道メディアは特異だ。システムが違う」という反論が予想されます。

ある程度、妥当性のある論だと思います。1000万部の世界最大発行部数をもつ読売新聞をはじめ、数百万部規模の全国紙がいくつも併存している国など聞いたことがありません。こうした巨大マスコミは、企業としてのビジネススタイルも、たとえば(規模が大きいとは言えない)ニューヨークタイムズとは異なるでしょう。悪名高い記者クラブに象徴される特異なジャーナリズムのあり方も、日本社会の特異性に根ざしている、と言えないことはありません。

僕が興味を持つのは、むしろ、いま現在、巨大マスコミの報道記者として働いている人たち個々人の内面です。

少なくない現職記者が、おそらくこの本を読んでいるはずです。いったいどんな気持ちでしょうか。僕は、いま新聞記者(とりわけ記者クラブ詰め)の立場から離れていることに、無意識にほっとしながら、ページをめくっていました。

上杉さんは日本の報道マスコミを「最後の護送船団」と称しています。妙に説得力があります。「護送船団」とは、官僚に守られた業界を指します。しかし、ここで指摘される「護送船団」とは、当のマスコミ、そこではたらく“ジャーナリスト”たちによる自己規制で成り立っているところが、きわめてユニークです。

上杉さんがこだわるのは、こうした行いはジャーナリストの社会的使命と行動倫理に反するではないか、という点です。ジャーナリスト(ジャーナリズム)の定義にもいろいろあるかもしれません。が、この本で上杉さんが繰り返し触れている、「ジャーナリストの(本来の)あり方」は、おそらく日本でも社会的に(理想として?)容認されている、とても常識的かつ説得力のあるものだと断言できます。

その前提に立てば、記者の多くは、①ジャーナリズムとは異なる価値観を重んじて日々の仕事を(納得して)行っているのか、あるいは、②違和感を感じつつも何らかの理由で眼をつぶって仕事をしているのか、それとも、③そもそもそんなことは考えていないのか、いずれかなのでしょう。

ちなみに僕は記者時代、基本的には②、ときには①・・・という感じでした。

現職記者の方々の考えを、ぜひ聞きたいと思います。

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スポーツと「言語技術」

前回に紹介したAさんというのは、片上千恵さんという方です。ご本人に確認したら「実名でいいですよ!」とのお言葉をいただき、あらためてご紹介します。

もともとテレビのアナウンサーで、スポーツ中心のメディアトレーニングをはじめ、イメージコンサルテーションや各種セミナーで活躍中。その片上さんから、面白い書物を教えていただき、さっそく読んでみました。

「『言語技術』が日本のサッカーを変える」(田嶋幸三著、光文社新書)。

日本サッカー協会が、中学生のサッカーエリートを集め、福島県で行っている全寮制のエリート教育(こんなものがあることも初耳)で、「言語技術」の習得が重視されている、というのです。実に興味ある話です。

ここでいう言語技術が何を指すか、細かい説明は省きます。

筆者は元日本代表のサッカー選手で、世界の強豪と自ら戦い、引退後は若手の日本代表を指導する経験から、海外の強豪と日本との差は、(肉体的・技術的なものよりも)言語技術にある、との確信を得ます。

僕もスポーツは好きですし、プレーした経験もあります。筆者が指摘するポイントは、うすうすは感じていました。たとえば、コーチが何か言うのを待つばかりでは、プレー中に自力で流れを変えることはできない、とか。

しかし、この本のように、「言語技術の不足が、弱い原因である」と喝破されると、新鮮な驚きを感じます。そして、読めば読むほど、「ああ、そのとおりだ」と納得します。

日本人の言語技術・能力に関しては、たくさんの分析があります。社会、政治、経済、文化・・・と、その影響を論じるフィールドも無限にあります。その中で、外国との比較もなされています。

ただ、この本が面白いのは、スポーツ、とりわけ点数で勝敗がはっきり決まるサッカーを舞台に論じている点で、言語技術が結果の優劣にどのように影響するのか、わかりやすくなっていることでしょう。

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同世代

「開業しました」メールを一斉配信してから、ありがたいことに、お客様がひっきりなしに訪ねてくるようになりました。もちろん、こちらから出向くこともありますが、ご祝儀でしょうか、まずは弊社まで(はるばる)ご足労いただけることが多いです。

今日も、アスリート向けの各種トレーニング・セミナーを中心に活動しているAさん(以前、ブログに書いたコーチの方とは違います)がランチに来訪。いろいろお話を聞かせてもらいました。スポーツの世界も、僕などが想像するよりはるかに幅広く、すでにコミュニケーションビジネスのマーケットとなっていることを知り、驚きました。お互い、補えるところでコラボしていこう、と意気投合。

サラリーマンを辞め、独立してから、こうした「ヨコ」のつながりが急速に広がりました。とりわけ、同業他社であるPR会社や個人レベルのPRパーソンとのお付きあいが増えました。

いろいろな、コミュニケーションと関わりをもって仕事をしている人と会ってみると、ちょうど僕と同じくらいの年代(30代半ば~40代前半)に、「ある程度の経験は積んだ。これから新しいものの挑戦してみよう」と考えている人が多いようです。この世代、(僕が言うのも変ですが)既存のPR会社での人材流出、人手不足がもっとも深刻な層でもあります。

世間一般に「脂の乗り切った」と評される、この世代が、中堅・大手の会社を飛び出し、世の中のさまざまな分野に散らばっているという事実は、この分野がまだまだ発展途上であること、近い将来に大きく変貌する可能性を示している、と僕は思います。

10年、15年後。どうなっているのか・・・。自分自身を含め、楽しみです。

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小沢一郎さんの記者会見

民主党の小沢代表が8日、党首選に届け出、無投票のため事実上の再選会見を行いました。

その映像が、日テレNEWS24に動画でアップされています。http://www1.ntv.co.jp/news/wmtram/dw/ng.html?m_url=080908064&n_url=118252

この映像を見ると、政権奪取を狙う野党第一党党首が解散総選挙前に行う決意表明とは、到底考えられないほどの退屈さ、つまらなさです。

今更ながらですが、小沢さんという人は、現代政治のリーダーに不可欠なコミュニケーション能力、ことばの能力、プレゼンテーション能力が、著しく不足していると断じるしかありません。

以下、気づいた点を列挙します。

①原稿棒読みである(下を向く回数が異常に多い)

②ジェスチャーが皆無(腕と手がまったく動かず、音声を消したらお地蔵さん状態)

③表情に変化がない

④質疑応答では質問した記者だけを見ている

⑤気の利いた言葉、キャッチフレーズがゼロ

⑥質問が聞き取れず顔をしかめて「ああっ?」とか、知りあいの記者が挙手すると「おう、」とか、テレビに映る公の場としての緊張感が感じられない

⑦回答が長い、結論が最後にくる(7分以上も続く回答がありました)

記者会見・プレゼンテーショントレーニングの“悪い見本”のようなポイントが、ぞろぞろと出てきます。

同じ日に大相撲で大騒ぎがあったので、翌9日の新聞朝刊は大相撲が1面トップ、1面の2番手が小沢会見でしたが、8日夜と9日朝のテレビは違いました。①大相撲 ②自民党総裁選(各候補の動き) ③小沢会見 の順です。野党第一党党首=総選挙で勝てば総理大臣になる人=の政策構想発表が、自民党の「途中経過」に及ばない。これは、どうみても異例です。

テレビは視聴率という明白な基準を軸に動くメディアであり、その点、大義名分や世間体を重視する新聞とは性質を異にします。小沢さんでは視聴率が出ない。自民党の「今日の動き」のほうが視聴者にとって面白い。こういうことなのでしょう。

民主党にとって、この日の小沢会見は、総裁選で自民党に傾いている世間の関心を引き戻す、大きなチャンスでした。しかし、この、つまらない記者会見はどういうことでしょうか? 何の工夫をしたのか? どういう戦略を立て、シナリオやキーワードを埋めこんだのか? もしかしたら、何の準備もしていないのかもしれませんね。

別のニュースで、民主党の山岡賢次国対委員長が「(総裁選は)自民党の、自民党による、自民党のためのショーだ」などと発言していました。たいしたセンスではありませんが、それでも、キャッチーな言葉を発信して、なんとかテレビでオンエアされるよう、工夫した形跡はあります。

先に挙げたポイントの中で、僕がとても気になるのは、④⑤⑥⑦です。

小沢さんは民主党の代表として、ふだんから定例の記者会見をこなしています。そのほとんどは、テレビでも新聞でも報じられません。この日も、場所は同じ党本部。小沢番の、親しい記者がずらりと前列に並んでいる。出てくる質問は、これまで何度も何度も答えてきたものと変わり映えしない・・・。しかし、この日の会見は、ふだんの定例会見とは決定的に意味が違います。

小沢さんに、その認識があったのかどうか。

福田さんの辞意表明会見で、質問した記者に「あなたとは違うんです」と答えたことを先に書きました。この日の小沢さんも、質問した記者に対し、「あなたは・・・」を2度、使っています。そして、④で指摘したように、質問した記者だけを見て答えています。さらに、「これまで何度も説明してきたけれども・・・」という趣旨を、うんざりした表情で話す場面もありました。

活字媒体だけを相手にしているのなら、これでも問題はありません。新聞は会見の全文を掲載しないし(しても誰も読まない)、小沢さんが喋った内容から、意味のある部分だけを抜粋して記事を書いてくれます。ふだんの定例会見では、報道されるとしたら、活字媒体のほうが可能性が高いですから、それでも不利益は大きくありません。

しかし、この日の会見がふだんと違うのは、間違いなくテレビで大きく報道されるという点です。それを前提とした対応がまったく見られないことに、驚きます。

テレビ露出が少なかったことは、民主党にとってマイナスです。しかし、もし、この会見の様子が繰り返し、テレビで詳細にオンエアされていたら、さらに小沢民主党は支持を失っただろうと推測します。

 

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あなたとは違うんです

福田首相の辞意表明会見での名言「私は自分自身を客観的に見れるんです。あなたとは違うんです」をネタにした「あなたとは違うんです」Tシャツが、飛ぶように売れているとか。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/175678/

なかなかのユーモアセンスです。さしずめ、酸いも辛いもわきまえた“大人”のTシャツーーといったところでしょうか。

それにしても、「私は私自身を客観的に見れるんです」まではよかったのですが、冷静な福田さんもさすがにストレスを抑えられなかったのか、余計なひと言を吐いてしまいましたね。「あなたとは違うんです」とは。。。

メディアトレーニングの初歩的なアドバイスに、「話をする相手は目の前の記者であっても、その背後には10万、100万、1000万人の人々がいると思って話をしてください」というのがあります。

メディアとは媒介です。視聴者、読者へとつながる「入口」に過ぎません。

福田さんは質問した記者に対して「あなた」と言ったのだけれど、メディアに流れた瞬間、その言葉は、それに接した国民全員を指す言葉に変質しました。

テレビ画面には、質問した記者は映りません。視聴者は、テレビ画面越しに、福田さんと対面しています。その福田さんの口から、「あなたとは・・・」と聞かされた。

もちろん、理性的には「記者に腹を立てているのだろう」と推測はできます。しかし、テレビは、理性よりも感性に訴えるメディアです。視聴者は無意識に、くだんの記者に自己投影したり、あるいは自分自身が声をかけられているかのように感じます。

いくら退陣会見といっても、われらがリーダー、一国の総理大臣から「あなたとは違うんです」と言われた国民は、どんな気持ちがしたことでしょう。ちなみに僕はといえば、「トホホ・・・」でした。

政治家は、自分の言葉が、とりわけメディアを通じて、人々にどう受け取られるか、神経を使うものです。そうでなければ、選挙にも勝てないし、権力闘争に生き残っていくこともままなりません。

その点でも慎重な身のこなしで知られた福田さんが、最後の最後、「素」に戻ってしまった。それだけ、肩にかかっていた重圧が大きかったのだろうと推察します。

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堕ちゆくブランド

大相撲をめぐる大麻疑惑は、シロクロ(ロシア出身力士が本当に吸引したのか否か)の決着が長引く中、日本相撲協会理事長(北の湖親方)の責任問題がクローズアップされてきました。

おかしな話です。当面の焦点は、検査結果が陽性と出たロシア出身力士が、本当に大麻を吸ったのか、であるはずです。ところが、いったん火がついた報道は、こうした「中だるみ」をもっとも嫌います。高視聴率で始まったこの騒動を、世間の注目を維持しながら、いかにして“つなぐ”か――。

往年の大スターで、一定以上の世代ならだれもが知っている「北の湖」というブランドは、その点、メディアにとっては救世主です。

仏頂面、言葉すくな、威圧するかのような視線、そして今も保たれた巨体。かつて最強の地位にいた力士としては、むしろ当たり前かもしれない彼の特徴が、この状況では、「堕ちた(堕ちゆく)ブランド」を演出するにあたり、これ以上ない、はまり役となってしまいました。

北の湖理事長の最大の間違いは、この段階(9月7日午前)まで、一度も自ら記者会見を開かなかったことにあります。

彼がマスコミに断片的に語っている内容は、それほど異常なことではありません。

「今、どうこう言っても関係ない。精密検査の結果がすべて」(9月3日)。「本人が絶対(大麻を)使っていないと言っている。徹底的に調べてほしい」「(簡易検査での陽性反応は)痛み止めの成分が出ているかもしれない。警察に見てもらってもいい」(9月5日)。――いずれも朝日新聞記事から

疑惑をかけられた力士本人が吸引を全面否定していること、(上記コメントの後で)精密検査でも陽性反応が出たものの100%クロとは断定できないこと、警察の捜査が進みつつあること・・・を考えれば、とりわけ力士の言い分を信じるという立場から、このようなコメントをすることは、非常識とはいえないでしょう。

しかし、次の点で彼の対応には問題があります。

①記者会見し、日本相撲協会として主体的な意思表明をしていない⇒ファンに支えられる団体として情報公開責任を負っているとの意識が皆無。

②相撲ファンや関係者、国民への謝罪の言葉・姿勢がない

③理事長としての責任について明言していない⇒現段階での責任、今後どうなったらどう責任をとるのかを示さないので、無責任・潔くないと映る

早い段階で堂々と記者会見をし、「皆さんにご迷惑・ご心配をかけて申し訳ない。ご心配をおかけしていることに、理事長として責任を感じている。ただ、力士本人たちは疑惑を完全否定しており、まだシロクロがはっきりしていない。私としては力士が正直に話しているのだと信じたい。今後、警察当局も含め、徹底的な調査が行われることを望む。協会としても調査に全面協力する。できうる調査を尽くした結果、クロと結論が出れば、私は責任をとって辞任する」――。

このように言いきってしまえば、その後、ぶら下がりや囲みでマイクを向けられても、同じ内容を繰り返せば、しのげます。マスコミも、このようなコメントを聞かされたら、そうそう批判できるものではありません。(もちろん堂々と、真摯に対応することが前提です)

最終的にクロ判定が出れば、どうみても理事長辞任は不可避です。北の湖理事長にとっては大きなダメージですが、こればかりは仕方ないことでしょう。

しかし、ここ数日の北の湖理事長の対応は、本来、ニュートラルで乗り切れる期間に、マイナスを積み重ねています。これがもったいないと思うのです。

「北の湖」ブランドは、この騒動ですでに、その価値を大きく毀損しました。

「卑怯だ」「潔くない」「責任感がない」・・・・。多くの視聴者、相撲ファンが、ブラウン管や新聞紙面から、このような印象を抱いていることでしょう。彼が現役時代、半生を賭け、それこそ血と汗の代償を払って積み上げ、掴み取った実績と人気。それが、いとも、いとも簡単に崩れていきます。

身近に、アドバイスをしてくれるブレーンがいて、彼自身にそれを聞き入れる気持ちがあれば、こんなことにはならなかったことでしょう。

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政治家と「ぶら下がり取材」

本日(9月4日)付け朝日新聞朝刊の世論調査結果(9月2~3日実施)によると、福田首相の突然の辞意表明を「無責任だ」と思う人は66%、「そうは思わない」が25%だったといいます。無責任とは思わない人が25%もいることに、驚きます。「かわいそう」とか「(首相の)周囲が悪い」といった気持ちからなのでしょうか? しかし、これを無責任と思わない国民が少なからずいるという事実に、日本人の「責任」の観念はいったいどうなっているのか、と訝らずにはいられません。

さて、新聞紙面や朝のテレビでは麻生さん、小池百合子さんなどの顔が並び、一気に華やかになってきました。総理大臣辞任後の、いつもの光景、つかのまの宴が繰り返されています。

同じ世論調査結果には、ほかにも興味深い数字があります。政党支持率です。自民党支持は前回から3ポイント上昇(!)して29%、民主党は1ポイント上昇の21%。なんと、これだけの大失態を全国民に見せつけた与党自民党が、民主党より支持を伸ばし、相変わらず上位にいるのです。これはいったいどういうことでしょうか??

自民党にとっては、ライバルである民主党のトップが小沢一郎さんで、本当に助かった、ということでしょうね。リーダーに必須の情報発信能力、コトバの能力、プレゼンテーション能力が著しく劣る野党党首は、この千載一遇のチャンスに、まったく存在感を示すことができません。党首選も無投票が決まっているし、民主党全体として、チャンスに攻める態勢ができていない。そのうちに、自民党お得意の総裁選劇場の開幕が近づき、麻生太郎、小池百合子という、福田さんが持ち得なかった「華」のある役者が出てくると、相対的に民主党の存在が霞んでしまう、という自民党サイドが描いたとおりの展開にはまっているわけです。

さて、政局があわただしくなると、要人とされる政治家は、1日に何度も記者やカメラマンに取り囲まれます。「囲み取材」とか「ぶら下がり」とか呼ばれるものです。テレビで、こういう光景を目にするたびに、「政治家はもっと自分がどう見られているかを気にしたほうがいいのに」と、つくづく思います。

僕が解せないのは、なぜ、あのような無秩序な「取り囲み」をあえて許し、その状態で「取材」を受けるのだろうか? という点です。

前後左右を記者に囲まれ、顔にくっつくほどマイクを何本も突き出され、背中や肩越しにもメモ帳片手に身体を密着させる記者がのしかかり・・・という、がんじがらめの状態で、「コメント」を発する政治家の姿を、テレビでよく目にします。こんな体勢で「取材」を受ける大企業のトップが、どこにいるでしょうか?(ありえるとしたら、よほどの不祥事で取材のコントロール不能に陥った危機的・末期的状況のみです)

何がマイナスなのか? 

第1に、自分がカメラ(とくにテレビカメラ)にどのような角度で映されているのか、あの状態では確認ができません。背中越しに、脂汗が光るうなじやあごをしっかり映されているかもしれない。しかも至近距離で。中高年男性の国会議員に対する(とりわけ若い)女性の評価が総じて低いのは、こうした映像の積み重ねが影響していることは間違いないと思います。

第2に、質問者が誰であるかがはっきりせず、思わぬところから質問が、しかもイレギュラーに飛んできます。質疑応答は、何らかの仕切り・ルールのもとに、秩序に沿って行われるべきです。そうでなく、不特定多数VSひとりの応酬になれば、圧倒的に回答者が不利になるに決まっています。

第3に、質問者と回答者との距離が、あまりに近すぎます。ほとんど鼻息がかかるくらいの至近距離です。これは、回答者が「取材」を受けていることを意識し、冷静かつ客観的に判断して、的確な言葉を選択する行為を妨げるに十分です。また、本来は記録されるべきではない「つぶやき」や言葉にならないような言葉、ため息のひとつひとつまで、マイクに拾われてしまう。

第4に、四方から押されながら話すので、身体がつねに緊張状態に置かれるため、神経が高ぶります。それが、後ろから押されて表情をゆがめたり、思わず語気を荒らげたりすることにつながります。よく政治家は「人相がよくない」「悪人顔だ」などと言われる原因のひとつはここにあります。また、緊張とイライラから不用意な発言、失言を招く要因にもなります。

どうみても、メッセージを発信するには、明らかに不利な状況なのです。

ある政党の仕事をしているとき、党本部のフロアにいくつか「お立ち台」を置いたらどうかと提案したことがあります。フロアを横切り、エレベーターに乗るまで、歩きながらの囲み取材が多かったので、取材を受けるなら、お立ち台の上で(壁を背にして=背後に記者を回り込ませず)、堂々とした姿で受けるべきだ、と。実現はしなかったようですが・・・。

最後に、第5のマイナスポイントを指摘します。それは、能動的に話している(メッセージを発信している)というイメージが伝わらず、聞かれたから(仕方なく)話している、と見えることです。今まさにテレビに露出している総裁選候補者(の候補)たちも、本当に総理総裁の椅子をめざすなら、記者に聞かれて何かを喋るのではなく、まず、自ら言葉を発するべきだと考えます。

福田総理の辞任劇で国民が辟易しているのは、その「他人事」な様子、「この人は本当に総理大臣になりたかったのだろうか=そうでないならはじめから(総理に)なるなよ!」という疑念です。次の総理は、その疑念を払しょくする人でなければ。

そのためには、これまで指摘したような、無秩序なぶら下がり取材・囲み取材は拒否し、言うべきことがあるなら、自ら(自らの主導で)堂々と発信する、という姿勢を貫徹してほしい。そう願います。

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政治家とディベート

ぶらりと入ったBook Offで、面白い本に出会いました。「安倍内閣の支持率を上げる方法」(総合法令)。もちろん安倍内閣当時に出た本です。

副題は「政治家のためのディベート術」。ディベートの専門家が、日本の政治家のコトバの能力について、辛口に解説しているものです。英国の議会との対比で、いかにこちらの政治家のコトバが貧困であるか(いかに議会がつまらないか)、これでもか、というほどにぶった切っています。

政治家の言動も、国民性の上に成り立つことを考えれば、いきなり政治家をやり玉にしても気の毒だとは思いつつ、具体例をあげながら、この問題に正面から切り込む文献は珍しいといえます。夢中で読んでしまいました。

タイミングよくというか、2日前には福田総理が突然の辞意表明。遅めに帰宅すると、家族が「福田さん、辞めたよ」と。まさか、冗談だろうと思ってテレビをつければ、ああ、いつか見たような光景が・・・。

福田さんの顔をだぶらせながら読むと、国のリーダーたる国会議員にとって、論理立てて明快かつ分かりやすく、しかも魅力的に話すという技量が、いかに重要不可欠であるか、さらには、日本ではそれがあまりに軽視されているという事実が、いやというほど身に染みる一冊です。

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関西弁が抜けない…

今日は8月31日。大人にとっては単なる夏の1日に過ぎないけれど、子どもにとっては重大な日です。しばらく雨模様が続いていたのに、今日は朝から晴天。夏休みの最後の最後、しかも日曜に、子どもたちへのちょっとしたプレゼントでしょうか。

さて、仕事で関西方面へしばしば出かけるのですが、言葉の違いには、とても興味があります。僕は環境に順応するのが早いのか、単に(その言葉が)好きなのか、関西で数日過ごした後、しばらく関西弁が抜けなくなったりします。

もちろん「関西弁」といっても、それぞれの地方に特有の言葉があり、大阪の中だけでも、いくつもあるわけです。ここでは「関西弁」と大雑把な呼び方をしますが、僕はこの言葉が大好きで、かなり「はまって」います。

気がつくと「・・・やろ」「・・・やないか」とひとりごちでいたり、お酒の席などで、いつの間にか語尾が「・・・や」「・・・やで」となっている。もともと横浜の生まれ育ちですから、「気がつくと」「いつの間にか」というのも変な話ですが、実際にそうなのです。

なぜだろうと自問すると、つまるところ、関西弁は「コミュニケーションを図るのに適した」言葉なのだろう、と思います。

大阪への往復の新幹線に乗っていると、東西のビジネスマンが乗り合わせているので、言葉の違いを鮮明に感じ取ることができます。たとえば、デッキで、携帯電話を手に部下を叱責している様子を見て(聞いて)いると、「東と西ではこんなに違うのか!」とつくづく感じます。

東の人は、怒りが募れば募るほど、語気にトゲが増し、語尾の言い切りが強く、激しくなってきます。言葉を短くちぎって、ぶつけるような感じ。はたで聞いていて、思わずいたたまれなくなるような、気まずい空気。。。当然ながら、電話での会話は一方的に、つまり言葉のキャッチボールではなく片方からの“投げっぱなし”状態になっていきます。電話の向こうで、「・・・・・(T_T)」と押し黙っている部下の顔が浮かびます。

対して、西の人では、語尾の感じが違うのですね。「まったくお前は・・・・・やないか」「・・・・ちゃうんかいな」という具合に、語尾がまるまって、言葉がぶつ切りではなく、つながっていくような、ある種のリズムを感じます。

自分が怒られているつもりでじっと聞いていると、こちらのほうが、はるかに切迫感が少なく、「追いこまれる」感じが弱いですね。「えらいすんません」くらい、なんとか言えるような気がするし、関西弁だと、その言葉に対し、相手が即座に反応してくれる雰囲気があります。

僕が上司に怒られる立場だったら、絶対に関西弁のほうが嬉しいです。

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梁石日文学

最近、梁石日(ヤン・ソギル)氏の小説にはまっています。

「闇の子供たち」に始まって「血と骨」(上下)、「断層海流」、「冬の陽炎」、「海に沈む太陽」(上下)・・・・と、立て続けに読み続けています。

恥ずかしながら、梁石日文学に触れたのは今回が初めてでした。もっと早く読んでおけばよかったと思うほど、今まで体験したことのない、圧倒的な迫力を感じます。

(今のところ)ベストの作品を挙げるとすれば、「血と骨」でしょうか。

北野武主演で映画にもなっている作品ですが、暴力(=肉体)が持つ“理不尽な”エネルギーを「これでもか」とばかりに放出し続け、それでいて淡々と、きわめて冷めた視線で描く手法は、ちょっとほかに例を見ないのではないかと思います。

おすすめの作品です。

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クラウス・バルビーという人

「敵こそ、我が友 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生」という映画を観てきました。

ゲシュタポ幹部で、ナチス占領下のフランスで“リヨンの虐殺者”と呼ばれた男が、戦後、反共の情報源兼活動家として米国に利用され、戦犯から逃れて欧州、南米ボリビアで歩んだ数奇な人生を、関係者証言からドキュメンタリーとして再現した映画です。

この手のドキュメンタリーにありがちな退屈な展開を心配しましたが、退屈どころか、ぐいぐいと引き込まれる映画でした。

クラウス・バルビーという人物は、この映画ではじめて知りました。こんな人物、人生が本当にあったのだと、驚きました。

あらすじはリンクを開いていただくとして、考えさせられるのは、偽名で移り住んだボリビアで老齢まで過ごし、山中で武装蜂起して反共の「第4帝国」政権樹立を画策するにまで至ったバルビーが、ついに身元が割れてフランスへ送致され、「人道に対する罪」で裁かれるシーンでしょう。

無期懲役(フランスは死刑がない)に処せられたわけですが、ケヴィン・マクドナルドという若い監督は、この判決を、かなり批判的な視点で描いています。

「今まで私を利用してきた人たちが裁かれずに、なぜ私ひとりだけが裁かれるのか」というバルビーの言葉が、かなりの説得力をもって聞こえてきます。

欧州や南米での共産主義の台頭の芽を摘むため、数十年にわたってバルビーを「利用」したCIAなど米国の当事者たちも、映画の中で証言をしています。

「敵こそ、我が友」というタイトルは、米国からみたバルビーの存在を表しています。

いろいろな意味で、考えさせられる映画でした。ただ、重苦しさにはまらず観ることができたのは、全編にわたり、ほどよく効いたユーモアと皮肉のスパイスのおかげでしょう。

秀逸なドキュメンタリーだと思います。

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阿久悠という作詞家

作詞家・阿久悠さんが亡くなって、いろいろな追悼番組が組まれ、あの、こわもてなのかやさしいのか、よくわからなくなる本人のお顔をテレビで見ていると、なんとも不思議な気持ちになってきます。

千個くらいの手品の「種」を、まとめて見せられたような。

なにしろ、僕の少年時代といえば、山口百恵からピンクレディーから沢田研二から、思い出す流行歌の(大げさでなく)ほとんどが阿久悠作品です。

数日前も特番を見ていたら、宇宙戦艦ヤマトにウルトラマンタロウの主題歌、あの河島英吾の「時代遅れ」、果ては「ピンポンパン体操」に至るまで、ぜんぶ阿久悠作詞だと新たに知り、さらに愕然としたのでした。

いったい生涯に何曲つくり、何枚のレコード・CDを売ったのか。はたして何人の人が、彼のつくった唄を何度耳にしたのか。気が遠くなるような仕事です。

阿久悠さんはテレビで、「唄は時代の扉を開く」ものだと語っています。よくわかります。

「UFO」なら小学校のあの時、「勝手にしやがれ」はあの場所で・・・と、僕の人生のひとコマがよみがえり、そして、同じ唄に夢中になった友人たちの顔が浮かんできます。

老若男女、少なくとも家族の2世代が同じ歌番組を楽しんでいた時代、「歌謡曲」――僕は子どものころ、火曜日のテレビでやるものだと本気で信じていました――というジャンルが消えたのは、いつごろでしょうか。

あのころといまと、どっちがどうだと言ったところで始まりません。しかし、阿久悠のようなモンスター作詞家は、二度と現れないだろう、という気はします。

あの時代、なぜ、たったひとりの作詞家が、あそこまで流行歌を席巻できたのか? とても興味があります。

それにしても・・・。はじめてテレビで氏のお顔を拝見したときの、なんともいえない驚き。もっと、芸術家らしい、いわば常人離れした風貌を期待していた僕は、その「普通」さに仰天したものです。なおさら興味が沸く理由でもあります。

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プロの「コーチ」とは

10年来の友人Aさんと、久しぶりに再会。

Aさんは某IT系企業の広報マンから、アスリート専門の「コーチ」に転身した人です。五輪に出場する、あるアスリートのメンタル面のサポートのため、今週、北京へ旅立ちます。

コーチングという言葉は最近、急速に普及しました。が、プロの「コーチ」と出会ったのは初めて。

さて、どのようにして超一流アスリートを「コーチ」するのか? 具体的に、どんなコミュニケーションをとるのか? こちらもコミュニケーションビジネスの看板を掲げている手前、興味津々で話をききました。

結論からいうと、そのノウハウの詳細は、よくわかりませんでした。PRもそうですが、コミュニケーションに重きを置く仕事は、他人に説明するのが実に難しいものです。肝心な部分は、守秘義務の壁に阻まれてしまいます。僕が彼に、僕の仕事を説明するとしても、やっぱり難しい。。。

しかし、彼の仕事の片鱗は、おぼろげながら理解できました。

世界のトップクラスに君臨する超一流アスリートが、実力(プラスアルファ)を発揮する上で障害となる要素には、きわめて日常的な、それこそ、サラリーマンやOLが毎日、職場や家庭で悩んでいるような事柄が多いということ。(たとえば、先輩との人間関係であったり、些細なことから発生するストレスであったり)

それを解決するため、アスリートの「心の中での対話者」となる。若手選手にとって気がかりな先輩選手だったり、監督にとって気になるナイーブな選手だったり、世界記録を目指す選手にとっての異国のライバルだったり。。。

コーチは、その「気になる誰か」「気になる何か」になり代わり、どうやら、模擬のコミュニケーション・ゲームを組み立てるようなのです。ここにノウハウが凝縮されています。

すると、それまで悶々と悩んでいたことが、「ああ、そんなものか」「そういうことだったのか」と、すっきりと解決していく。それによって、最高のパフォーマンスを発揮できる状態へと導いていきます。

PRコンサルタントが提供するメディアトレーニングにも、これと同じようなプロセスが含まれます。一流アスリートも、大企業のトップも、宿命として「孤独」とたたかい、乗り越えなければならず、そのサポートを提供するプロがいる、そういうことなのでしょう。

今回の日本選手団のうち、Aさんのようなプロのコーチが帯同するアスリートは、ほとんどいないそうですが、10年後には、状況は大きく変わっているかもしれません。

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見えなかったことが見えてくる

通勤で使っている原付バイクの燃費を調べてみました。

なんと、1リッターあたり38.94キロ! 

4.16リッター入れて、162キロ走ってくれるのだから、ガソリン高もほとんど気になりません。おまけに駐車場の心配がいらず、エンジン止めて手で押せば「歩行者」に早変わり、横断歩道でもどこでも自由自在に動ける、実に便利な乗り物です。

さて、新しい事務所は、風の通りがよく、僕はいつも窓を開け、エアコンをつけずに過ごしています。さすがに扇風機の助けは借りますが。。。

1カ月の電気代は3800円で済みました。エアコンを使わないのと、照明も湯沸かしポットも、必要ないときは、こまめに電源を切っているからだと思います。

僕は元来、こうしたことに無頓着な性格でしたが、今の職場環境になって、少し変わったようです。特段、エコに目覚めたわけでもなく、倹約する必要に迫られているわけでもなく、なんというか、「コストをかける」ことが、あまり「気持ちよくない」ことに気づいたのかもしれません。

サラリーマン時代は、会社の営みの一部しか見ていません(見えません)から、コストと最終的な成果(単に利益だけではなく、仕事全体の姿とでもいいますか・・)をセットで感じることがありませんでした。

しかし、小所帯ながら、自分で仕事を完結させざるをえない立場に置かれると、ちょっと感じ方が変わってくるものです。

無駄な(成果につながらない)コストが増えてくると、これまた変なたとえですが、お正月にぐだぐだした生活を送り、ぜい肉と体重が増えて、ちょっとした自己嫌悪を感じる――、これと似た感覚を抱きます。

エコでもなく、倹約でもなく、仕事(のやり方)として不満!・・・という思いが出てくることは、独立してはじめて自覚しました。

「いい仕事をしたい」との気持ちは、かつても今も変わりませんが、このような面でも「いい仕事」という感じ方があるのだな、と。

話は変わりますが、PR会社の経営者は、たいてい「ケチ」(失礼!)が相場となっています。売り上げの急増が滅多に期待できず、コストの大半を人件費が占める経営スタイルが普通ですから、「ケチ」でなければ(経費を大盤振る舞いしていたら)、あっという間に赤字転落してしまう。それはわかっているけれど、社員からすると、ついつい愚痴のひとつも言いたくなるもので・・・。

これにも、当時の僕には見えていなかった、経営者ゆえの内面があったのかもしれません。少し反省しています。

日用品の買い物では1円の安さを争うのに、余暇などでは(比較的)大胆にお金を使う女性をみて、男性は、よく「なぜ?」と首をひねります。これも、女性(とりわけ主婦)が、家計という仕事を完結させる経営者である、と考えると、おそらく、倹約だけではない、仕事の美学ともいうべき要素が働く結果が、「1円の安さ」として表れているのでしょう。(では、なぜ余暇では・・・?⇒それは、『仕事』から解放された時間だから)

やはり、反省です。

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PRパーソンと弁護士の関係

危機管理のコンサルテーションで、僕がクライアントの弁護士と強く「絡んだ」案件は、過去に2件あります。

ひとつは、政治の仕事でした。政治とメディアの関係をよく知る弁護士と、メディアの誤報対応に取り組みました。かなり強気で攻める弁護士さんでしたが、メディアをよく知っているため、僕は「強気のトーン」を微調整し、メディアの反応をコントロールすれば、問題はありませんでした。

PRパーソンと弁護士が、同じ目的のために協力し、いい結果を出せた仕事でした。

もう1件は、ある大手企業での事例です。

不祥事発表の記者会見をすることになったのですが、クライアントの顧問弁護士が、きわめて強気なうえに、メディアの反応(それによるクライアントのダメージ)という要素に無頓着な人だったため、事前の準備は迷走を極めました。

あまり具体的には書けませんが、端的にいうと、刑事処分の結果(有罪・無罪/起訴・不起訴)という法律上の「成果」を最優先するあまり、クライアントの社会的責任の取り方、それによる社会からの評価への配慮がすっぽり抜け落ちていたのです。

このケースでは、クライアントの従業員が書類送検されることが確実で、その後の刑事処分がどうなるか、確かに重大なポイントではありました。

しかし、このクライアントは、とても公共性の高い業務分野の企業であり、刑事処分以前に、報道で大きく取り上げられることが間違いない状況でした。

弁護士は「会見で何も言うな。こっちから証拠を出すな」。顧問弁護士として会見に同席する、とも主張しました。

僕は「きちんと謝罪し、説明すべき。全部出してしまえば、最小限の報道で済む」と。もちろん、弁護士の会見同席はNGです。

この両者の主張は、一般論としてどうこういえるものではありません。

事案の具体的な状況によって、場合によっては、記者会見を開かなかったり、事実上のノーコメントで乗り切るのが最善という場合もありえます。要はリスク判断です。(ただ、ここでは守秘義務の関係で、これ以上詳しくは書けません)

迷ったのはクライアントです。どちらの言うことを信じるべきか。。。。方針は二転三転しました。

結局、記者会見が開かれる日まで、その弁護士と契約はせず、その後の法的対応のみをお願いすることで決着しました。

「(本件でクライアントが被る)ダメージの大半は、発表当日と翌日の報道しだい。続報がだらだらと流れ続ける状況だけは、絶対に避けるべき」との主張を認めていただきました。

記者会見は、謝罪と説明という、きわめて真摯なトーンで行い、当日と翌日の関連報道も、事前に予想した範囲内で収まりました。

その後の刑事処分も、想定の範囲で決着。ここでは弁護士が活躍したのだと思います。

PRパーソンと弁護士。危機管理・危機対応の局面で、クライアントは双方を活用します。通常は、両者が「バッティング」することはまれで、クライアントの異なる窓口経由で、それぞれが仕事をします。ただ、いま書いたように、正面からぶつかるケースもあります。

クライアントの反応を見ていると、「専門家」としての信頼では、やはり弁護士に大きなアドバンテージがあります。最後に身を守ってくれるのは弁護士・・・と。これはある程度、仕方ないことでしょう。「そんなことを(会見で)言ったら、裁判で不利になる」と言われれば、言い返すのは難しいものです。

ただ、法的な側面と、メディアの反応=社会からの評価と、2つの基準をいずれも重視し、バランスをとりながら対処できる人は、意外に少ないのだな、というのが率直な感想です。PRビジネスに対する社会的評価が、まだまだ成熟していないことも一因だと思います。

PRパーソンには国家試験も資格もありませんが、弁護士と対等とはいわないものの、クライアントに「専門家」として認めてもらえるよう、努力するしかない、ですね。

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記者会見の想定QAについて

クライアントが記者会見をする前に、想定Q&Aをつくるのは、PR会社の重要な仕事です。

もっとも、外部スタッフであるPRパーソンは、もっぱら想定「Q」を抽出し、予想しない質問で登壇者が立ち往生しないようにすることが求められ、「A」の作成はクライアント側が担当することが多いものです。

前職時代から、たくさんのQAをつくり、また、同僚の仕事ぶりを見てきましたが、クライアントもPR会社も「勘違いしているのでは?」と思うことがあります。

それは、あまりにも「完璧なQA」をつくることに労力と時間を費やしすぎる、ということです。

数十項目、ときには100にも及ぶ想定「Q」を抽出するのは、相手(メディア)の武器(質問)を可能な限り予測する点で、意義のあることです。

しかし、そのすべてについて、完全な「A」を作成し、10枚近いペーパーに小さな文字でびっしり書き連ねても、ほとんど意味はありません。

(そんなものを会見前に渡されても、理解・記憶して会見に臨み、緊張の中で記者の質問を受け、その通りにコメントすることは不可能に近いです。大量のQAを担当者から渡された社長さんは、たいてい、ちらっと目を通すだけで、じっくり読む人はほとんどいません)

記者会見は、観客の前で演じる「芝居」です。もちろん「ナマ」、いったん幕が上がれば、舞台上で演じる役者以外、スタッフは口も手も出すことが許されません。

だから、当然のことですが、実際に演じる役者の頭の中に、どのようなシナリオがあり、その結果として、どのような演技ができるか――が、すべてです。

会見前夜まで徹夜し、細かい言い回しに気を使いながら、長大な想定「A」をつくりあげる広報スタッフは、それを忘れているか、軽く考えているのではないか、と思います。

僕はどうするかというと、まず、想定「Q」は徹底的に抽出します。可能性がある質問はすべて洗い出し、全体で100項目を超えることも珍しくありません。

そして、会見実施の遅くとも数日前に、実際に登壇する方と差向いで、想定「Q」を読み上げ、1問ずつ、口頭で「A」を即答していただきます。

すると、「Q」と「A」それぞれの「傾向と対策」が、如実に浮かび上がってくるものです。

強く訴えたいメッセージ(キー・メッセージ)は何か/キー・メッセージを効果的に表現する言い回しができているか/メディアが聞きたい(知りたい)ことは何か/それに十分に応えられているか/聞かれて困ることは何か/それにどう答えればいいのか・・・。だいたい、こんなところに集約されます。

それをもとに、メモをつくります。想定「Q」に対する「A」を逐一、作成することはしません。

①集まるメディアは何を考えているのか(認識、理解度、かれらの想定シナリオ)

②絶対に伝えるべき(キー・)メッセージとは何か

③伝えるためにどうしたらいいのか(例えば、冒頭と最後にこのフレーズを繰り返すとか)

④リスク要因は何か→どのように対処するか

それぞれ、テーマごとに1枚。大きな文字で、いくつかのポイントを箇条書きにします。

だいたい、QA作成で労力を費やすのは、④です。あれは言えない、これは守秘義務…と、いろいろな事情が絡み、ミスをしては大変!と思うほど、危険な「Q」があとからどんどん湧き出てきて、「A」は際限なく細かく、複雑になっていく・・・。

しかし、ここで大切なことは、「原則の確定」です。「言わないこと」を列挙するのではなく、「言うべきこと」(その範囲)を明確に定める。そして、それ以外は、いっさい言わない。

これが、最も理解しやすく、原則がぶれないやり方です。細かく例は出しませんが、複数のパートナーが絡むアライアンス案件を想定すれば、わかりやすいと思います。

こうしてできた数枚のメモを、会見の前日なり当日なりに、再び登壇者と差向いで、徹底的に「刷り込み」ます。もう、細かい話はいっさいしません。せいぜい3つか4つ程度の「ポイント」。これを、憶えてもらう、のではなく、理解してもらう、のが目的です。

このようにすると、僕の経験では、登壇者の頭の中がすっきりし、発言がぶれず、記者会見はうまくいくようです。

こんなやり方で、細かい質問がきたら対応できるのか?と思われるかもしれません。しかし、トップクラスが登壇する記者会見で重要なことは、メッセージの全体像がきちんとメディアに伝わり、こちらが望む報道となって世に出ることです。

まっすぐ進むはずが、予期せぬ脇道にそれたり、けもの道に迷い込んだり・・・。そういう事態を避けることが、すべてに優先すると思います。たとえば、製品スペックのような細かい話は、「会見後に広報からご連絡します」で片づけても、たいした問題にはなりません。(メディアが企業トップに臨むのは、その企業の『意思』をはっきり示すことです)

会見前に、数枚のメモを登壇者に「刷り込む」ときが、会見の成否を分ける「勝負」です。ここで、「その通りだ。それでいこう」と納得してもらえなければ、すべては崩壊しますから。PRコンサルタントの経験と洞察力、判断力、プレゼン能力が、まさに問われる瞬間といえるでしょう。

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差別表現について

「改訂版 実例・差別表現」(堀田貢得著、ソフトバンククリエイティブ)を読みました。

「言葉は時代とともに変化していくものだと考えると、その言葉が誰かを無意識に傷つけてしまう可能性があると思われる場合は、言い換えるべきだと判断する。それは自主規制であり、『言葉狩り』ではない。<中略>言語商品生産者の一員としての『商品管理』と考えるのである」

「あとがき」に、こうあります。

読み終わって、正直言って、疲れました。これでもか!というほど、差別表現の実例列挙が続く(この本は基本的には『べからず集』です)ため、表現者のはしくれとしての自分自身を思うと、なんとも世知辛いというか、ダメダメ尽しの感があるためです。

しかし、この「あとがき」を読んで、印象が変わりました。

著者は、大手出版社に長く勤め、週刊誌の編集長代理など、編集の現場経験の長い人です。表現者として当然抱く、(自分の)言葉を守りたい、誰にも邪魔されたくない、という欲求を十分に理解したうえで書かれた「あとがき」だから、説得力を感じます。

「言語商品生産者としての商品管理」――。なるほど、という言葉です。

読み切るのは、かなりしんどい一冊ですが、良書だと思います。

考えてみれば、PRパーソンも表現者の一員ですね。ウェブにアップされたプレスリリースは、全世界に向けて公表された、クライアントの公式文書です。その割には、PRの現場では、この問題への関心が低すぎるかもしれない、と最近、感じています。

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地方紙記者のプライド

映画「クライマーズ・ハイ」http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id330008/を観てきました。地方紙記者出身の横山秀夫が書いた小説をNHKがドラマ化し、非常に高い評価を受けた作品。それを今度は映画化するわけですから、目の肥えた観客を相手に、かなり難しい演出だったはずです。

1985年の日航機墜落事故をめぐる、墜落現場・群馬県の地元新聞社内での葛藤を描いたものです。

ドラマでは佐藤浩市が演じた日航全権デスク・悠木を、今回は堤真一が演じました。ナイーブさと「お坊ちゃん」らしさが漂う佐藤浩市に対し、堤真一の悠木役は、強さと弱さの両極端がより強調された役作りでした。

それに引きずられるように、編集局の脇役は個性全開、キャラが立ちすぎるほど立ち、映画としてはわかりやすく、楽しめる内容だったと思います。

この作品、PRパーソンなら、新聞社の内部の事情や記者とデスク、編集幹部との力関係など、勉強になることが多いから、ぜひ観ておくべきだ、という人がいます。

ここで描かれる新聞社の様子は、かなり実際に近いものだといえます。ただし、映画ですから、登場人物それぞれのキャラが(当然ながら)極端に立ちすぎていること、悪役の描き方が辛辣すぎること、そもそも22年前の設定であることなど、差し引くべきことは多々あります。しかし、記者とデスクの関係、デスクと編集幹部の関係、編集局と販売局の関係、取材(裏取り)の手法、どれをとっても、昔から今まで変わらない根幹の部分を描いています。

その意味では、ふだんのPR業務でなかなか垣間見ることができない、報道メディアの一面を知る、よい教科書だといえるでしょう。

この作品の「キモ」は、地方紙という地味なメディアを舞台としていることにあると思います。全国紙の東京本社や東京のテレビ局を、華やかに、格好よく描くドラマはいくつもありますが、地方紙に正面からスポットをあてた作品は、ほとんどありません。

墜落現場が群馬か、隣接する長野かで一喜一憂したり、全国紙からの記者の「引き抜き」の話、地元紙ゆえのプライドと全国紙への負い目や反発心が交錯する記者心理・・・。

極めつけは、事故原因の大スクープを裏取りすべく、若い県警キャップが事故調査委員会の要人に夜回りをかけるシーンでしょう。隔壁破壊が原因であるとのネタを「当て」たキャップは、悠木デスクへの電話で、悔しさを押し殺した声で、こう告げます。「・・・サツカンなら、『イエス』です」

夜討ち朝駆けでなじみの県警捜査官なら、簡単に裏が取れる。しかし、東京から遠征してきた、初対面の調査官では、ネタを当てた反応が読み切れない。だから、ネタが正しいかどうか、100%の確証が取れない――、こういうことです。

悠木は紙面化を断念。翌朝、毎日新聞に同じネタがデカデカと報じられました。

僕が仙台の支局で駆け出し記者生活を送っているとき、「ゼネコン汚職事件」が発生しました。「仙台市長に1億円」という1面トップの特ダネは、僕が所属していた産経新聞のものでした。

ただし、僕たち地元の記者は、その日まで、何も知りませんでした。

前日、東京社会部から支局へ出張ってきた検察担当のベテラン記者から知らされ、どれほどの大事件か想像もつかないまま、夜明け前から市長の自宅に張り込みました。

翌日、市長が逮捕されると、熾烈な特ダネ合戦の火ぶたが落とされます。

このとき、青ざめたのは宮城の地元紙、河北新報です。なにしろ、この事件は完全に東京地検特捜部の主導で隠密捜査が進み、宮城県警・仙台地検に情報はゼロ。しかし、事件の舞台は仙台・宮城ですから、読者は地元紙である河北新報に期待します。

そのなかで、東京に取材拠点をもつ全国紙と渡り合うのは、想像を絶する困難です。

連敗を重ねていた河北新報が、一度、そこそこのネタでスクープを飛ばしたことがありました。情報源は「関係者証言」。捜査当局ではありません。おそらく、東京地検に取材ルートがない状態で、徹底的に官民の関係者取材を繰り返すことに賭けたのでしょう。

その日の河北新報夕刊には、「新聞(もちろん河北新報)を食い入るように読む市民」の写真まで掲載されていました。編集局内部が、お祭り騒ぎだったことは想像に難くありません。

この事件の取材指揮をとった河北新報の県警キャップは、その直後、40歳前後の若さで急死されたと聞きました。ゼネコン汚職事件取材で心身をすり減らしたのが一因だと、その同僚が話していました。

その姿が、スクリーンの悠木デスクや若い記者たちと重なり、胸が熱くなりました。

僕が、この作品を繰り返し読み、観ている理由です。

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独立しました

PR会社「プラップジャパン」を退職し、今月から小さな会社を立ち上げました。

「ピーアール・ジャパン株式会社」といいます。

なんだか前職に似ている?といわれるかもしれませんが、そんな意図はありません。

会社の名前は「わかりやすい」「おぼえやすい」「意味(由来)が明確」がいちばんだと思っているので、おそろしくシンプルな名前をつけました。意味は、大風呂敷をひろげるようですが、日本で「いちばん」のPRコンサルテーションを(ゆくゆくは)提供したい、という、これも単純明快な由来です。Dsc_0067_2

事務所は、自宅に近い横浜に構えました。

写真はビルの屋上からの景色です。大桟橋からベイブリッジまで、横浜港が見渡せます。山下公園から徒歩1分、海が大好きな僕にとっては、ぜいたくすぎるほどの立地です。

記者時代を含め、16年余にわたる[横浜⇔東京]遠距離通勤生活ともオサラバ。片道25分の原チャリ通勤も気に入っています。仕事や人づきあいで東京都心へ出ることも多いけれど、みなとみらい線に飛び乗れば、都心まで30分前後で行けるので、不便は感じません。

40歳にして、2度目の転職となりました。

24歳で新聞記者になったとき、こんな人生は想像だにしませんでした。ということは、これから10年後、20年後の自分も、きっと、今の自分には想像できない生き方をしているのかもしれません。願わくば、そうありたいものです。

このブログのデザインも変えました。プロフィルも更新しました。恥ずかしいですが、思い切って顔写真も載せました。

これからは、より「自分」を出して、日々の思いを綴っていきたいと思います。 

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猿+CHANGE!は人種差別?

今朝(7月4日)付の毎日新聞朝刊に、通信ベンチャー「イー・モバイル」のTVCMが、米国人からの批判を受けて放映中止になった、との記事が載っています。http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080704k0000m040084000c.html

選挙演説している猿と、「CHANGE!」のプラカードをあわせた演出で、僕は、なかなか面白いCMだな、と思っていました。

寄せられた批判は、「オバマ上院議員を猿に見立て、人種差別にあたる(黒人差別だ)」との内容です。

記事によると、イー・モバイルの担当者は「指摘されたような受け止められ方をされることを理解し、放映を中止した」とコメントしています。

よくある顛末ではあります。しかし、このCMはそもそも、オバマ氏のパロディを前提としてつくられたことは、誰だってわかります。当然、こうした批判が出ることも予想されたはずです。

企業が、人種差別問題で批判されるリスクを嫌うのはよくわかります。また、ある程度オンエアされ、そこそこ話題になった(宣伝効果は出た)後だから、「もういいや」という気持もあるのかもしれません。

しかし、こうした短い記事として、詳しい事情説明のないままに報道されると、とても残念な気持ちになります。どこの代理店なのかは知りませんが、あまりにも、「作り手」に対して冷たいコメントではないですか。

単に、批判があったからやめます、ではなく、当然予想される批判について、どのように考え(批判を予想したか否かも含め)て放映に踏み切ったのか。そして、寄せられた批判をどう解釈し、今度は放映中止という判断に至ったのか。

政治家をネタにしたパロディは、世界中にあふれています。日本の新聞や雑誌をみても、時の総理大臣や有力政治家を面白おかしく描くことは日常的で、政治家もいちいち抗議などしません。その前提には、きわめて社会的責任が重い「公人」に関しては、ある程度、この種の扱いを受けることは仕方ない、という社会的合意があると思います。

さて、CMに戻りますが、仮にこのCMが、ブッシュ大統領を猿に見立てたパロディだったとして(猿に似ている点ではこちらが上かも・・・)、なんらかの抗議が寄せられたか?、広告主やテレビ局がどう反応したか?――。

ブッシュはOKで、オバマではNGとなると、こんな図式がなりたちます。

従来の(白人)米国大統領選候補者、あるいは大統領に対し、マスメディアに許されてきた“パロディ化権”が、オバマ氏に関しては、彼が黒人であるという理由で、制限ないし禁止される。

マスメディア、報道機関にとって、かなり深刻な問題です。また、人種差別問題や公人のプライバシー権、肖像権などを考えるうえで、きわめて重大な論点だとも思います。そして、文章や漫画、映像など、あらゆる分野の表現者にとって、表現手段や生業を奪われかねない事態でもあります。

だから、広告主も、ニュースとして報じる報道機関も、こんなにあっさり、素通りしてほしくない。そう感じます。

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記者に電話するのは「いつ」がいいか?

「新聞記者に電話するには、何時ごろがいちばんいいのですか」

よく聞かれる質問です。最近も、あるパーティーで外資系企業の広報担当の方から聞かれました。

これ、結構難しい質問です。

まず、午後5時ごろから7時ごろ、朝刊の出稿時間帯は、なるべく避けるほうがいい――、これは確実に言えると思います。

その日の記事を翌日の朝刊に載せる、いわゆる「生ネタ」を扱う部署の記者であれば、少なくとも毎日1本は朝刊に記事を出稿するのが、ノルマのようなものです。(これを『出席原稿』とも呼びます。私は仕事してますよ~とアピールするための)

午前中に取材したとしても、原稿を打ち始めるのは、だいたい夕方からになります。早い時間に取材したのだから、さっさと書けばいいのに・・・と思いますが、これがなかなかそうはいかないもので、つねに締め切りにあわせて出稿する習性みたいなものですね。

朝刊の早版の締切は、だいたい午後9時前後です。これは、紙面を組上げるうえでの締切ですから、記者がデスクに原稿を送る時刻は、当然、それよりかなり早くなります。その日の仕事(取材)を終え、締め切り時間とデスクの作業にかかる時間を逆算して、記者は出稿します。

すると、午後5時から7時ごろの時間帯に、記者たちからデスクに対する出稿が集中するという現象が起きます。

記者も忙しいですが、何十人もの記者からの雑多な原稿を受け取り、短時間で処理することを余儀なくされる当番デスクの負担は、ちょっと想像できないくらい、忙しいなんてものではありません。

だから、この時間帯に本社の社会部なり経済部なりに電話をかけ、運悪いことに、その電話を当番デスクが取ったりしたら、それはもう・・・・悲惨な結末になる可能性が高いわけです。

「うるせえ!」と言わんばかりに受話器を投げられた、といったたぐいのエピソードは、多くがこうした「不運」から生まれているのではないか、と推測します。

さて、問題は、それ以外の時間帯についてです。

夕刊の出稿時間帯は、午前9時ごろからお昼過ぎまで、かなり長いのですが、そもそも夕刊は紙面が狭く、ニュースも薄い(経済ネタなどは外信以外はほとんどありません)ため、大多数の記者が記事を出しているわけではないのです。

また、夕刊が終わって朝刊の時間帯までの間――午後1時半ごろから5時ごろ――は、締め切りの制約が少ないので、記者は比較的忙しくないことになりますが、この時間帯は取材のピークでもあります。つまり、自席にはいない可能性が高く、携帯にかけても出られない可能性が高い、ということです。

じゃあ、いつ電話すればいいんだ?? となりますが、僕の経験からいうと、あまり時間帯を気にしても仕方ない、という、きわめて肩すかしな結論となります。ここまで書いたことも、あくまで一般論に過ぎず、実際には、その日その日によってさまざまな動き方、働き方をしているのが記者だからです。

それよりも広報・PRパーソンに重要なことは、「電話口で怒鳴られた」とか、「ものすごく無愛想に電話を切られた」「すごい不機嫌だった」とか、いちいち相手の反応を気にしない、悩まないことだと思います。

締め切りに追われて原稿を書いている記者、同じく原稿を直しているデスクは、相当なハイテンションで仕事をしています。だから、おのずと激しい口調になるし、なにより、まどろっこしい(時間のかかる)話を振られることを嫌います。その結果、自分の「持ち時間」が減るのですから、これは当然の反応といえます。

その結果が、「びっくりするような」対応となるわけで、たいていの場合、「怒っている」のでもなければ、「不機嫌」でもないのです。無事に仕事が終われば、それまでがうそのように、リラックスした表情に一変するものです。執筆中にかかってきた、PRパーソンからの電話のことなど、(それが重大でない限り)たいてい忘れています。

そんなものだと気楽に構え、「ああ、ちょうど忙しかったのね」くらいに軽く受け流すのが、いちばん利口なスタンスではないでしょうか。

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最高のスクープ

忘れられない新聞記事があります。毎日新聞の2000年11月5日(日)付け朝刊1面です。

宮城県にある上高森遺跡で、考古学者が自ら石器を地中に埋め、覆いかぶせた土を足で踏み固める姿をビデオで撮影し、その連続写真を報じたのです。ご記憶の方も多いかもしれません。

僕は新聞記者として10年を過ごし、その間、数えきれないほどの「抜かれ」を経験してきましたが、この記事を目にしたときは、それこそ気絶するくらいのショックを受けました。

写真の考古学者・F氏は、サラリーマンのアマチュア考古学者でありながら、「ゴッドハンド」(神の手)と呼ばれる発掘の名手でした。僕が仙台の支局で駆け出し記者をしているとき、宮城県在住だったF氏はまさに「絶頂期」で、上高森遺跡をはじめ、各地で考古学の教科書を塗り替える発掘を重ねていました。

僕は、F氏を幾度も宮城県版の紙面で取り上げました。地元の英雄として、とことん持ち上げたものです。そのときは、まさかこんな結末が待っているとはつゆ知らず・・・・。

支局を離れ、東京本社の社会部から経済部に移ったころ、この記事に出会いました。

そのとき、自分がすでに仙台を離れていたことを、どれほど幸運に思ったことか・・・(情けないですが、これが本心です)。その日の支局は、おそらく「最悪の日曜日」を迎えていたはずです。

スクープを書いたのは、毎日新聞の北海道の記者。道内の遺跡発掘でのF氏の仕事に疑問を抱き、隠密に周辺取材を重ね、ついに宮城で「証拠写真」を押さえたのです。お会いしたことはありませんが、この記者を心から尊敬します。すごい仕事です。

記事は新聞協会賞を獲得し、その後、F氏の長年の「業績」の大半がねつ造だったことが判明。実際に、歴史の教科書は記述の修正を余儀なくされました。

スクープと呼ばれる報道は数多くありますが、僕は、この記事こそ、少なくとも、僕が直接見聞きした報道の中では、ダントツの最高峰だと思っています。

その理由は、①当局情報に頼らない、完全な調査報道である ②完璧な証拠を押さえている ③この報道がなければ、その後もねつ造は発覚せず、誤った「歴史」が更新されいた可能性が高い――ことです。

もうひとつ付け加えるなら、事実は小説より奇なり、ではないですが、読者の想像を超える衝撃的な「ドラマ」を「事実」によって見せてくれたことでしょう。

胸のすくような、鮮やかなスクープを紹介したくて、ついつい7年前の新聞記事を引っぱり出しました。

スクープ(特ダネ)、そして、その逆。

これも、メディアと付き合うPRパーソンにとっては重要な事柄ですね。あらためて考えてみたいと思います。

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朝日新聞の「力」

さて前回の続きです。

昨年の参院選で自民党が惨敗した後、ジャーナリストや政治関係者と会食したことがありました。その中に、朝日新聞の政治部記者で、かの参院選を担当した人がいたので、僕はいろいろなことを質問しました。

ご承知の方も多いでしょうが、あの選挙で安倍政権を退陣に追い込んだ力のひとつに、「負け組社会」「ワーキングプア」というキーワードがありました。

当初、自民党はこれを甘く見ていました。

「確かに小泉改革以後、地方や低所得者層が割を食っている状況はある。しかし、統計的に明らかな現象ではないし、かなり“気分”に支配されている」・・・と感じていたようです。

「負け組」「ワーキングプア」のキャンペーンを張った先導役が、かの朝日新聞であり、朝日系のテレビ朝日でした。マンガ喫茶を定宿にしながら日雇いで働く若者、明日をも知れない生活に苦しむ高齢者、といった特集を連発していました。

そこに決定的な追い討ちをかけたのが、社会保険庁による年金問題です。これは安倍政権以前に起因する問題で、本来は安倍政権をつぶすだけの力は持ち得ないと考えるのが自然ですが、その前から朝日が始め、ほかのマスコミも追随していた「負け組」報道と相乗効果を起こし、じわじわと安倍政権の支持率を下げていったのです。

安倍さんにとって不幸だったのは、彼自身がいわゆるテレビ型政治家ではなかったこと――小泉さんとは異なり、安倍さんがテレビに出ると視聴率が下がったそうです――、いかにもお坊ちゃん風情であり、庶民的なイメージをついに出しえなかったこと、選挙戦の終盤に、内閣のタガの緩みから信じられないような閣僚の失言やスキャンダルが連発したこと、そして何より、前任者である小泉さんと比較される運命にあったこと・・・があります。

政治家安倍晋三と朝日新聞は、思想的にも対立する立場にありますし、事実、安倍さんは朝日を裁判に訴えたり、過剰とも思える攻撃的な姿勢をとっていました。これも、結果的には不幸を招きました。

さて、くだんの会食で、僕は前々から感じていた疑問を、朝日新聞記者にぶつけてみました。朝日があのような強力なキャンペーンを張った「論拠」はどこにあったのか?どのような統計、分析に基づいて決断し、継続したのか? と。

なぜ、こんなことを聞いたかというと、僕自身、当時、さまざまな報道に接していて、その種の「論拠」となる事実――日本社会全体が「そう」であることを示す数値的な資料――を見つけられずにいたから、だとすれば、なぜ、そこまで自信をもってキャンペーンを継続できたのだろう、との疑問を強く抱いていたためです。

ところが、彼の返答を聞く限り、どうも、そのような明確な経済統計なり社会分析の結果があり、それに基づいて実行されたキャンペーンではなかったようなのです。

これをもって、やっぱり朝日は自民党政権打倒が念願であって・・・とか、マスコミはいい加減なものだ・・・とか、批判や揶揄をするのは簡単ですが、ことの本質は違うところにあるのではないかと思います。

朝日は、長い間の小泉政権が終わり、歴代首相の中では奇跡的ともいえる高い人気を保って退陣した政権のあとに訪れた「時代」、その「空気」を鋭く読み取っていたのではないでしょうか。

そして、ある確信に基づき、手法としてはきわめてリスキーながら、「あたればでかい」キャンペーンに打って出た、ということだと思います。当然、その結果として動くであろう政治の力学も織り込んだ計算です。

「けち」をつけようと思えば、数限りなく指摘することができます。

この流れのおかげで、農政では民主党の主張したバラマキ(全農家に所得保障)政策が支持を集め、地方の「自立」をめざす分権論議は霞み、社会保障ではあたかも「低負担・高福祉」(ありえない選択)を求めるかのような論調が世の中を支配しました。背景には、この流れに乗ろうとして政策を考えた民主党の存在が大きいことは言うまでもありません。

しかし、ジャーナリズムの立場から、よくよく考えると、「さすが朝日だな」、と思わず脱帽してしまうのです。

イデオロギーは横において、報道機関としての実力やスタッフの力量、記事のクオリティを考えれば、朝日新聞はいまも日本一の報道機関であると思います。

こうした「大勝負」が打てるのも、その結果の評価はさておき、「さすが朝日」と思ってしまう。なにより、参院選で惨敗した自民党関係者が、身に染みて感じていることではないでしょうか。

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「蟹工船」を読む

またサボってしまいました。。。。。m(__)m

さて、小林多喜二の小説「蟹工船」がブームだというので、遅まきながら暇に任せて手にとってみました。

読んでみると、これが面白い。なんだか損をした感じがします。

小林多喜二といえば、「プロレタリア文学」の代名詞で、共産党活動の咎で官憲に拷問の末、虐殺された・・・・と、教科書に載っています。ステレオタイプというのは恐ろしいと思うのは、そういうレッテルを張られ、繰り返し頭に刷り込まれると、素直に小説を楽しむ以前に、「ゴリゴリの共産主義者の書いた共産主義の小説」という前提が、堅固に出来上がってしまい、そもそも小説を手に取る気がしなくなってしまうのです。

だから、これまで読もうとも思いませんでした。

「蟹工船」ほど、貧困を明るく描いた作品はない、というのが僕の率直な感想です。暗い話ですが、明るく読めます。

貧困をじめじめと、恨みがましく、未練たらしく描く作品は多々あるでしょうが、「蟹工船」は違います。カラッとして、心地よい感じがします。こんな具合に、前向きに、「さあみんな、団結しよう!」とやられたら、なるほど、当時の官憲も放ってはおけないでしょう。人を動かす力を持った作品、これに尽きます。

ところで、「蟹工船」ブームのなぞ解きをしようと、新聞紙上でさまざまな論調が展開されていますが、最近はやりの「ワーキングプア」「負け組社会」とイコールで語る論には、素直に賛同する気になれません。

どうみたって、船の上で労働者(従業員)を殺人と等しいやり方で死に追いやる、作中の「監督」の素行は、現代社会の秩序とは差がありすぎます。

むしろ、こういう「カラッとした」主張、論調、あるいは文章が、世間にあまりにも少ないことが、「蟹工船」に若年層(新聞によれば)が群がる現象を生んだのではないか。。。と考えました。

この背景事情には、マスコミの論調が大きく影響しています。このテーマ、続けて考えたいと思います。

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