本を読む、こと
久しぶりに、おそらく学生時代以来、沢木耕太郎の本を読みました。「バーボンストリート」と「血の味」。前者はエッセイ集、後者はフィクションです。
バーボンストリートは、学生時代に読んでいる「はず」です。良書は繰り返し読め、といわれますが、なるほど、そのとおりだと感じました。
沢木耕太郎といえば、僕が学生の時代、ちょっとしたヒーローでした。組織に属さない、一匹狼のジャーナリストで、若く、それでいて文章はほれぼれするほどカッコいい。
あんなふうになりたい。そう思いながら、当時のジャーナリスト志望学生は、読んでいたのではないでしょうか。
僕は数年前まで、本を部屋にため込むタイプでした。捨てられないのです。だから、書棚には二重、三重に雑多な書籍が押し込められ、どこに何があるのか、さっぱりわからない状態です。
それをあるとき、一念発起して、すべて捨てる、という行動に移しました。
野口悠紀夫の「超整理法」を読んだのが契機です。
知識はストックからフローの時代になった。インターネット時代は知識の蓄積ではなく活用にこそ「知的労働」が存在する。
そんな論旨に、頭を殴られたような気がしたものです。
書棚をひっくり返して、この半年に手をつけた本、1年以内に触った本、読んだ記憶がない本、実は開いてもいない本・・・と分類してみると、驚くなかれ、ほとんどが「記憶なし」の紙の束だったのです。
何百冊かわかりませんが、全部、捨てました。財布はたいて買った、分厚い広辞苑も。
それ以来、本棚はからっぽ。商売道具になる広報・コミュニケーション関連の書籍のみ並べ、ほかはいっさいためない、というより、そもそも、読まないことにしたのです。
本を読むことで、自分があたかも「知識の源泉」に触れているように感じることからくる安心感、あるいは怠惰というものから脱却したかった、といえば偉そうですが、早い話が、飽きたのでしょう。
本から離れ、そのかわり、「ストック」ではなく、いかにも「フロー」の匂いがする、インターネットやらポータブルオーディオプレイヤー(iPodみたいの)やら、デジタルの利器にシフトして、いつの間にか数年。
・・・・・・・・・・最近は、また本に戻りつつあります。
なぜだかわからないけれど、電車の中で、手のひらにしっくりくる文庫本を開くとき、とてもわくわくします。
これが揺り戻し、というものでしょうか。それとも、また得意の「飽き」ゆえか。
いまは、杉浦日向子さんの「一日江戸人」(新潮文庫)を楽しんでいます。
日向子さん、NHKの「お江戸でござる」でおなじみですが、46歳で他界されたときはびっくりし、僕はこの人が好きだっただけに、本当に残念でした。
初めて彼女の文章を読むと、その明るい人柄、江戸文化への造詣の深さが伝わってきて、とても楽しい気持ちになります。
さて、本の魅力とは、いったいなんなのか。
いまだにうまく定義することはできません。ただひとつ、以前の僕と異なる点。それは、ハードカバーの新刊本への興味が薄れ、もっぱら文庫本ばかり物色するようになったこと。
・・・・人間、「ほどほど」がいいのでしょうね、おそらく。
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